***詳細解説***
 寺田寅彦 は 物理学者,随筆家として知られています。
東京生れですが、幼時を父の郷里の高知で過しました。


 五高在学中に
田丸卓郎(1872‐1932)によって自然科学への眼を開かれ、1903年東京帝国大学理科大学卒業。1909年東大助教授となり、この年より1911年までドイツへ留学しました。 1916年教授になった後、理化学研究所、東大航空研究所、地震研究所<br>などにおいて実験物理学,地球物理学の研究にしたがい,各分野に独創的な業績をのこしました。

とりわけX 線による結晶構造解析(ラウエ斑点)の開拓的な研究は著名で、1917年学士院恩賜賞受賞。1927年
A.ウェゲナーの大陸移動説をとり入れた日本海形成論を唱え、30年よりは割れ目の物理学を開始して、ガラス板の破壊実験を行うとともにその発想を生命にまで広げ論文「割れ目と生命」を書きました。

 
吉村冬彦の筆名で随筆も執筆しました。文学への開眼は五高在学中の夏目漱石との出会いにありました。(重要文献・「県民グラフ」高知県 昭和28年11月号所収 竹崎一枝「私の知っている寺田さん」)。


 漱石には、教室で英語を習い、自宅で俳句を学び、その紹介で上京後
正岡子規を訪ね、俳句や写生文を「ホトトギス」に寄稿しました。やがて高浜虚子らの文章会に出席,ドイツ留学に赴くまでに有名な随筆「団栗(どんぐり)」(1905)ほかを発表、自然と人事への哀愁を帯びた観照を端正な文章に刻んだ諸作は、「藪柑子(やぶこうじ)集」(1923)に収められています。

 著書は他に「冬彦集」(1923)、「万華鏡(カレイドスコープ)」(1929)、「蒸発皿」(1933)、「橡(とち)の実」(1936)など多数あります。初期の作品にはホトトギス派の写実的な文章が多い。後年は文学論、映画論、さらに科学の方法論や科学教育など、文化の広い領域に及んでいます。日本の風土の特殊性から災害現象にも強い関心をもち、数多くの警世的な文章を書きました。これらは「天災と国防」に収められています。

 特に人口に膾炙している「天災は忘れたころにくる」という彼のことば(著作にはこの句はありません)に集約されており、今日なお示唆に富んでいます。門下に
中谷宇吉郎,藤原咲平,平田森三,安倍能成らがおり,それぞれ寺田の多様な側面を引き継いでいます(寅彦を取り巻く人々については、資料欄に記載した
「FRONT」がよくまとめています)。

○高知市にある家は、
寺田寅彦記念館として残り、
「寺田寅彦友の会」もあり入会することができます。
友の会では例会や講演会をおこなっています。


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寺田寅彦(てらだ・とらひこ)1878-1935は、
高知市(現・同市小津町)に少年時代を過ごしました。
物理学者ですが、現在では、科学的業績より
文学-とりわけ随筆がよく知られています。
夏目漱石との親交は「我輩は猫である
の中に寅彦をモデルにした人物が登場する
ことでもよく知られています。

更新日2012年03月16日

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てらだ とらひこ

寅彦の師 夏目漱石
寅彦の愛弟子中谷宇吉郎
漱石の友人 正岡子規

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