宮崎雑感 8
抜山蓋世などで思う
宮崎優

昨年暮れから岩波の「四字熟語辞典」に取り組んでいるが、最近「抜山蓋世(ばつざんがいせい)」と「悲歌慷慨(ひかこうがい)」の説明を相次いで読んだ。同書には次のように載っている。
 垓下(がいか)の戦いで漢の劉邦軍に囲まれた楚の項羽は、「四面楚歌」の中で敗戦を覚悟し、寵姫虞美人や将兵と別れの酒を飲み、「悲歌慷慨」し自ら詩を為って詠う。「力は山を抜き、気は世を蓋うも、時に利あらず、騅(すい・項羽の愛馬)逝かず。騅逝かざるをいかんすべき。虞や虞や若をいかんせん」(「史記」項羽紀)
 かって県立城東中学校の東洋史の授業で春秋・戦国時代・秦の始皇帝による初の天下統一、万里の長城の建設と焚書坑儒、始皇帝の死後項羽と劉邦の戦いのあと劉邦による漢の建国などを、また漢文の授業で四面楚歌のいわれなどを習ったがそれほどの感銘も受けなかった。
 昭和55年12月、大阪へ出張した帰りに阪急百貨店で「項羽と劉邦」全3巻を買い一気に読んだ。そして農民の出で沛のごろつきでしかなかった劉邦が名門項一族の勇将項羽と戦って敗戦を重ね窮地に陥りながらも次第に勢力を増し、最後に決定的な勝利を得るこの物語を夢のような気持ちで読んだ。読み終わったあとも劉邦の勝利は夢物語のように思えてならなかったので58年に読み返したことであった。
 

 項羽は勇猛無比で部下の信頼は絶大であったが余りにも傑出しすぎて部下の意見を取り入れることが少なく、そのために亜父と称して尊敬していた范増(はんぞう)さえも彼の元を去っていく。これに対して劉邦は個々の戦闘では項羽の相手ではないほど弱かったが、彼の率いる漢軍は同郷の蕭何(しょうか)、亡漢の遺臣張良(ちょうりょう)、元項羽の部下であった韓信らの活躍で、鯨布(げいふ)や元盗賊の彭越(ほうえつ)さえも取り込み次第に勢力を増していく。
 司馬遼太郎は文中で「劉邦はおのれの能くせざるところは、人に任せるという一事だけで回転してきた」と述べているが、これが著者の一番言いたかったことではないだろうか。城東中学校の漢文の授業で韓信が漢の高祖劉邦に対し、「臣は多々益々弁ず」と述べた後、「陛下は将の将たり。是吾が擒(とりこ)となる所以也」と応えたとうろ覚えに覚えているが、この言葉は上述の文と一致しているように思われる。
 



 別れの席で詠った歌の最後「虞や虞や若をい何せん」に項羽の無量の感慨が込められている。この言葉と、中学1年の時国語の杉村督郎先生から虞姫の死と結びつけて教わった”虞美人草”の名の由来は忘れることができない。この花は虞美人の墓から生えてきた花だとされている。余りにも儚かった虞美人の死を、華やかではあるが花期が短くパッと散るこの花に見立てて後世の人たちが付けた「哀悼」の名であろう。和名をヒナゲシと呼ぶこの花は昭和50年代まで高知市日曜市の種苗業者松浦雅さんの店頭で虞美人草の名で売られていた。「抜山蓋世」などを読んで、城東中学校1年生の時虞美人草を教えて頂いた担任杉村督郎先生の柔和な眼差しを思いだす。                                                                               
                          2003年9月2日