夏に7匹いた女郎蜘蛛も徐々に数が減り、9月15日最後の1匹が姿を消した。前々日5回目であろうと思われる産卵を終えたあとも立派な巣を張り、まだしばらくは大丈夫だろうと思っていたが翌日、日が高くなると巣から離れて生垣のウバメ樫の葉に身を隠し夕方には見えなくなった。よく餌にありつき大変元気そうであったが、気候の変動に加え最後の出産で力を使い果たしたためであろう。大往生であった。
蜘蛛にも個体差があり、この蜘蛛の10日前に死んだ車庫横にいた蜘蛛は次第に衰弱し、5回目の産卵の後は足が曲がっていた。それでもイチモンジセリ(私達はトンボチョウといっていた)を与えると巻いて体液を吸い始めたが、夕方には餌を残したままいなくなった。老衰死であろう。
私と女郎蜘蛛との付き合いは古く、小学校へ入学する前後だったと思う。当時は高知市大膳様町(現在の大膳町)にいたが、裏の土手が男子付属との境界でカラタチ(私達はキコクと呼んでいた)の生垣が茂っていたので常に数匹の女郎蜘蛛がいた。時々餌を与えたが近くの山にいる蜘蛛の方が遥かに大きかった。山の蜘蛛には黄金虫や蝉が掛かっており餌の掛かっていない巣は稀であった。また、裏の土手にはシャガが茂っておりトカゲ、カナヘビ、殿様蛙などが沢山いたので、たまに虫を糸で括って釣って遊んだことであった。
幼年時代、私の友はイタドリ・椿・野苺や女郎蜘蛛・トンボ・鮒・海老などであった。彼岸花(私達はシーレーと呼んでいた)が咲き出すとトンボも鮒もいなくなるのでたまらなく寂しい気持ちになったことであった。
30才前後、借家ではあったが庭の池には鯉が泳ぎ、夜には前の田圃で殿様蛙の昼には裏の柿の木でニイニイ蝉の合唱であった。女郎蜘蛛も特に餌を与えた記憶はないが毎年数匹巣を張っていた。一番遅くまで生きた記録は確か11月4日であったと思う。他の蜘蛛と比べ随分遅く生まれたであろうことと、巣を張った場所が軒の下で冷え込みもすくなかったであろう.
当時水路にはドジョウがいくらでもいて通勤での帰宅時には水路のドジョウと蛙の数を数えながら帰ったことであった。家の池のほとりには数匹の羽黒トンボがおり、また、時々池の土蛙を狙ったヤマカガシ(私達は田蛇と呼んでいた)もいた。
しかしその後エンドリンなどの農薬使用でドジョウや蛙は激減した。40〜50才代の高知高専時代には大型のトンボ・ギンヤンマ(私達は牝をヤマ、牡をシブと呼んでいた)
やオニヤンマ(同ウシヤマ)は殆ど見かけなくなっていた。ただ女郎蜘蛛だけは高知大学農学部のフェンス沿いなどに沢山いたが、木が茂りすぎた関係か鬼蜘蛛に取って代わられその数が減り、高知高専の女郎蜘蛛は樹木の消毒などで殆ど壊滅した。楽しみにしていた仁淀川でのチヌの舟釣りも、平成6年の交通事故で靭帯が切れて釣りとの縁も切れた。
懐かしい殿様蛙もおらず泥鰌も殆どおらず、今は動物との縁は女郎蜘蛛だけである。最近誘蛾灯の普及で害虫、特にヨコバイとゴミムシの仲間が激減した。農家にとっても国の政策としても喜ばしいことではあるが、蜘蛛などにとっては住みにくい世になったと思う。餌が少なくなった証拠に熊蝉が掛かっているような大型の女郎蜘蛛は高知平野には殆ど見かけなくなった。これも時代の流れであろう。我が家の最後の蜘蛛が姿を消したときウバメ樫や木犀に卵から孵化した僅か2〜3ミリの女郎蜘蛛の子が数匹小さい小さい巣を張っているのに気付いた。幼年時代から係わりの長かった女郎蜘蛛は来年も私の目を楽しませてくれることであろう。
2003年9月19日