高新夕刊「歴史のロゴス」で中村伝喜先生を思う
高新夕刊「歴史のロゴス」に、島崎藤村「若菜集」の「6人の処女」の一部分であるとして
「処女(をとめ)ぞ経ぬるおおかたの われは夢路を超えてけり
わが世の坂にふりかえり いく山河をながむれば
水静かなる江戸川の ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影に われは処女となりにけり」
が載っていた。
この歌は県立城東中学校時代に中村伝喜先生から教わった。先生が感情を込めて、「岸の桜の花影にわれは処女となりにけり」と歌うように朗読された姿が心に焼き付いている。
同校在学中は第2次大戦が終わり、戦時中の連日の勤労奉仕、敗戦後の食糧難と生活苦に喘いだ苦しい時代であった。しかし、学校での国語の授業は楽しかった。杉村督郎・三宮慎介・中村伝喜先生に教わったが、中村先生の授業は特に感銘を受けた。先生が雑嚢を肩に掛け、手拭を腰に下げて石川啄木の「春まだ浅く」を口ずさみながら帰られている姿が昨日のことのように目に浮かぶ。
浜田清次先生が出版された『万葉集を読む 上巻』の「あらがき」の中で、
「防人に立ちし朝明の金門出に 手放れ惜しみ泣きし児らはも」 (万葉集巻14、3569)
昭和12年8月、土佐梁山泊の泊祖・中村伝喜先生は、その出征送別会の
席上、この防人歌を2回くりかえし吟詠せられました。それは、1200年前
の防人の悲しみとご自分の悲しみとを綯い交ぜにして、哀切々、いたくわ
たしの魂を揺さぶりました。これが万葉の歌とわたしとの真実最初の出会い
でした。当時わたしは20歳。中学の学窓で恩師・杉村正先生の薫陶を受
け、その人格と学問に傾倒、先生のあとについて行こうと決心して、土佐梁
山泊に入ったばかりでした。
と述べられている。
「春まだ浅く」は、
「勇める駒のいななくと 思えば夢はふと覚えぬ
白羽の兜銀の楯 皆消え果てぬさはあれど
ここに消えざる身ぞ一人 理想の道に佇みぬ」
と結んでいる。
中村伝喜先生に教わってから50年以上たつのに、この歌は自然と口をつい
て出る。先生の凄い実力と、出征などの人生経験をふまえた国文学への情
熱が教え子にこのような影響を与えたのではないだろうか。
先生のご冥福を祈ってやまない。
2001年8月31日