宮崎雑感 3

村岡先生のご冥福を祈る

 

 宮崎優

 1945年(昭和20年)終戦後の混乱と食糧難の中、他校の中学生と同じように私達県立城東中学校(現追手前高等学校)の生徒も連日の勤労奉仕から解放され、久しぶりに授業に専念する日が続いていた。
 堺工業から赴任された村岡猛男先生の授業との出会いは鮮烈であった。先生の授業は「周期表」から入られた。メンデルーフが、元素を原子量順に並べるとき周期的に変化することを発見し周期表を作成した経緯を述べられた後、その周期表に基づいて原子価・酸化還元・イオン結合共有結合などを説明しこれらの概念を用いて後の各論の授業を行われた。
 それまでの科学の授業は博物との関わりが強く、各論事に例えば鉄では鉱石赤鉄鉱と磁鉄鉱の製鉄から入っていたので、この統合的な授業の展開は斬新であり強く引きつけられた。戦災と敗戦後の混乱のため教科書はなく講義をノートへ書き写したが帰宅後そのノートを開くことが多かったので、授業内容特に周期表は70歳を越した今も昨日のことのように鮮明に覚えている。
 大学2年のとき無機化学の試験で錫灰の現象を電子殻・電子軌道から捉え、周期表で錫に続くアンチモンが金属ではあるが水素と化合してアンチモン化水素を作ることなどと結びつけて説明し、出題の教授から大変褒めていただいたことがあった。村岡先生の城東中学校の授業が化学科でない私に数冊の科学通論を読む意欲を与えてくれていたお陰である。
 私は昭和32年宿毛高校から創立したばかりの高知学芸高校へ赴任した。中1年おいて村岡先生が高知工業高校から赴任され大変嬉しくそして心強く思ったことであった。先生が着任されたとき第2棟の東半分には理科準備室を挟んで階段教室と化学実験室が完備していた。先生は階段教室で講義を、実験室で数多くの実験をしておられた。
 私達が習ったときは混乱の時代で実験が出来ず講義ばかりであったが、先生の本領は”実験に裏づけられた化学の強さ”であったように思う。後のことだが先生は長期に亘り高知大学の「実験講座」の非常勤をされている。

 

 

 

              

 

 

 

 

                                       

                              

 

 

                         

 

 学芸高校には昭和36年春までに、城東中学時代の恩師である数学の松木健一先生、国語の中村伝喜先生、付属中学で教官・生徒の信頼を一身に集めていた英語の坂本龍愛先生が着任され、化学の村岡先生に加え数学・国語・英語の高知県内での最高実力者が揃い、各科の若手教官は大先輩を目標にひたすら研鑽に励んだことであった。村岡先生達が学芸へ来られたことが若手教官の実力向上に繋がり学校発展の原動力の一つになっているように思われてならない。私も夏休みなど少なくとも午前中は机を離れることなく、教材に関する本を読み入試問題を解き高等数学教程(スミルノフ著)などを読んだ。 学校での校務分掌では、村岡先生が教務部長、私がその下で日課運営・教育課程・補習を担当していたので運営については常時打ち合わせをしていた。先生は部下の意見を大変尊重されたので忙しかったが楽しかった。また学校視察のため一緒に出張することも多かった。1961年(昭和36年)秋には島村先生(第2代校長)、松木先生、村岡先生と私が東京の日比谷高校、上野高校などを視察した。そこで接した先生方の教材と学

問の体系に対する造詣の深さに感心した。またこのような伝統校とは異なり学芸高校は発足したばかりなので、生徒の学力の向上に加え今までのようにおちこぼれを作らない努力も必要だなとも思ったことであった。
 私は1968年(昭和43年)高知高専へ転勤したが、学芸で村岡先生や松木先生を目標に勉強してきたことが大変役立ち有難かった。
 村岡先生の奥様が亡くなられた後伊野町枝川のお宅へ伺った。お元気で城東中学校や学芸高校での四方山話をし大学でなさった講座のことなをお聞きした。 ご子息夫妻がごく近くで生活され、奥様を亡くされて寂しかったではあろうが落ち着いた日々を送っておられた。 一昨日先生の葬儀に出席しご子息村岡高光さんの挨拶を聞いて、誠実に堂々とした人生を送られた先生のご冥福を心から祈ったことであった。

                                 2003年4月3日