入院中の亀井クリニックのすぐ南を江ノ口川が流れている。毎日病室から川面を眺めており、暖かい日には気分転換と運動を兼ねて川沿いを歩くこともある。丸池橋と海老ノ丸橋間北岸のどてにある南京櫨(なんきんはぜ)・栴檀・楠を除けば、他はすべてコンクリートで川としての風情には乏しい。しかし水は青くてボラが泳いでおり、鴨の群れが羽を休め時々ピーヨピーヨと鳴いている。
 初めてこの川を見た人達は、地方都市のごくありふれた川だと思うかもしれないが、少年時代の記憶が鮮烈に焼きついている私にとってはボラが泳ぎ鴨が浮かんでいるのを見るだけで嬉しくなる。 少年時代、江ノ口川に架かる小津橋を渡り高知城の北側を通って県立城東中学校へ通っていた。江ノ口川はコーヒー色をして悪臭を放ち、「日本でもこれ以上汚い川はないだろう」と思われるほどのドブ川であった。製紙の廃液が処理されないまま流入していたからである。
 終戦後西日本パルプが旭地区に進出し、汚染は急激に浦戸湾全体に広がった。私は当時高知市潮江にいて鏡川河口の新田や役地町でチヌ・エバ・ニロギなどを釣っていたが、青かった水が褐色になり、さくさくとしていた海底の底が黒いヘドロの土に変わり、泳いだ後毛穴に汚れが付き、魚が臭くなっていくのがたまらなく淋しかった。

”浦戸湾を守る会”の山崎会長らが製紙会社の排水溝に生コンを流し込む「生コン事件」を起こしたのはいつだったろうか。西日本パルプが移転した後浦戸湾は見違えるように青くなり新青柳橋には釣り人が並んだ。しかし今度は生活廃水が汚染の第一要因であること、河川への不法投棄が後を絶たないこと、そしてPCB、ダイオキシンによる環境汚染などが報道されて久しい。
  1月29日入院後初めて県立中央病院から北へ出て江ノ口川沿いを亀井クリニックまで歩いた。川の水は青く
岸には僅かではあるが青海苔が生えていた。地元の人に、「水が綺麗になりましたね。魚もいるでしょう」と尋ねると、「ええボラはいくらでもいます。夏にはハゼが満ち潮になると棚まで上がってきますよ。ニロギもいます。子供が30cm位の鮒を何匹も釣りましたよ」と話してくれた。「食べられますか?」と聞くと「以前のヘドロが残っているのでそれは無理でしょう」とのことであった。かって報道されたような古自転車の残骸は全く見当たらず、ビニールやポリ袋もほとんどなかった。翌30日海老の丸橋のすぐ西にある下知下水処理場の排水溝を見た。処理された水は50cm下まではっきり見えるほど浄化されている。水温が高いためか餌と

 

 なるものが混じっているためか分からないが30cm余りのボラが百匹以上この流れに群がっていた。干潮時だったので底の土も見えたがゴカイはいるだろうと思った。数年前この川の上町2丁目付近では鯉や鮒の群れも見受けられた。
 高知市の下水普及率は40数%ではあるが、県・市・住民の協力によりかって”悪臭を放つ死の川”であった江ノ口川が”生物の住める川”に蘇っている。素晴らしいことだと思う。この環境改善の努力をさらに押し進め、浦戸湾の魚が安心してたべれるようにはならないものだろうか。浦戸湾にかってのようなニロギ釣りの舟が点々と浮かび”秋の風物詩”となる日の再来を夢見ている。
                 2003年2月2日

宮崎雑感 2
江ノ口川の昔と今
  宮崎優