雑感を書き始めて1年余りが経った。昨春70歳で高専非常勤を退いたとき、このまま家に引き籠もって何もしないでいたら"酔生夢死”で終わってしまうと思った。 しかし、これといった仕事も目標もないので、せめて「日記」でも書くようにしよう。たまには思いつくままを「雑感」(良い題名ではないが)に書いてみようと考えて始めたものである。
パソコンに触れるということは生活の中で1つの区切りになるのだろうか、生まれてこの方続いたことのない日記が当然のように続いている。雑感も初めの頃は日記を少し詳しく書く程度であったが、その質は別として次第に量を増し、また備忘録的な雑感も増してきた。そして最近は何を書こうかと雑感のネタを探すようになった。この所古墳に関する発見が続きその都度新聞を繰り返し読むが、内容を納得のいくようおさめることが出来なくて頭を痛めている。嬉しい悲鳴である。
私は子供の頃から一貫して魚釣りと花・野菜作りが趣味であり、文学や歴史にはほとんど関心を払っていなかった..今遅まきながらも日本の古代史に興味を抱くようになったのは、浜田清次先生の『万葉集を読む上・下』を読んで感動し、読み返しながら歌をすべてノートに写し、その歌を繰り返し読んできたお陰である。
その歌のいくつかをおもいつくままに述べてみよう。
一番の大泊瀬稚武天皇の御製「籠よみ籠持ち・・・」の「語訳」で述べられている雄略天皇の説明で、この天皇の時代、大和和朝廷の勢力が東は関東から西は九州にまで及び、宋の天子に手紙を書き送ったことを知った。二番の息長足日広額天皇の御製「大和には群山あれど・・・・」は、この御製が紀元節の歌の2番「海原なせる埴安の・・・」のもとになっていることに気づいた。
「春過ぎて夏来るらし・・・」を詠まれた持統天皇の和風諡号(しごう)は高天原広野姫天皇であり、天照大神は持統天皇をモデルに作られた神様だと考えられることを知り驚嘆した。また、藤原宮の御井の歌の「鑑賞」の中で香具山が高天原から天下ったといわれる霊山であることを知った。
大伴家持の長歌「陸奥国より金を出せる詔書を賀ぐ歌」の「鑑賞」で、家持が「海行かば水漬く屍・・・・」を大伴家の家訓としていることを知った。
倭建命の辞世というべき歌「倭は国のまほろば・・・・」の講義で、伝説上の人物倭建命の最後にこのような歌を詠わせた古代人の心に胸を打たれた。また、聖徳太子の辞世の歌
「いかるがの富の井の水生かなくにたげてましもの富の井の水」
は、先生の講義された歌の中で最も心に響く歌であった。
先生が詠まれた歌「ますらをの道の正道を言挙げて聖徳太子の子は死にたまひけり」は忘れることが出来ない。 『万葉集を読む』の出版を記念した会で、私に指定された席の歌は柿本人麻呂の「淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」であった。
近江京が栄えそして壬申の乱で滅んだ「いにしえ」を、夕浪の上を飛ぶ千鳥と結びつけて歌ったこの歌は全編中私の最も好きな歌であり、奇しくもその席に着いたことで感激も一入であった。
この所ずっと体調が悪く耳鳴りに悩まされている。家の周囲の田圃では蛙が夜通し盛んに鳴いているが「耳の蝉蛙と合唱競い合い」で充分眠れない日もある。週に1・2回自転車で国道へ出て歩行訓練をしているが、雨で諦める日も多い。今の私にとって毎日出来ること、それは庭の花を飽かず眺めることや本や新聞を読むこと、そして拙くてもよい文章を書くことである。
『万葉集を読む』に感謝している。 (2002年5月17日)
宮崎雑感 1
『万葉集を読む』に感謝
宮崎優