○むすびの意義 (神典形象)松浦彦操師
「むすび」は、陰陽相対的なるものが和合すれば必ず一つの新しい活動が起こるといふ事を意味した言葉である。 神代の御神名にも産霊といふのが見え、霊 (ひ)を産むといふ文字が顕れているが、 この神典形象(みふみかたどり)にも「むすび」形式を修行すれば必ず霊(ひ)が産まれてくる事を約束されている。 即ち結び形式を修行して居れば自ずから霊性が開発されて来て、大宇宙の神明に通ずる様になるといふことである。 これを法則的に説明すればむすびの哲学となる。 「むす」は「すむ(済む)」の義で、これは始めより終りまで、相対的なものが相和して中央に帰一し、 中心によって統一せられるといふ原則を表示している言葉で、相対交叉の中央点を「め」といふ。 霊女(ひめ)の語はこの意味ではないかと思ふ。 要するにむすび形象は、相対的なものが相交はり、相和してゆくべき原則を教義として表示せる形式である。 我が国では上代より男女陰陽の和合によって生まれた子供を「むすめ」「むすこ」と称するが、 これは「むすびひこ」「むすびひめ」といふ言葉の略称であって、むすひの哲理を自ら表現している。 古代神事の中には「みたまむすび」と呼ぶ形式があって、 これらの結形象(むすびかたどり)によって神を祭り神意を人々に伝へることを秘事として奉仕したものである。 むすびは天地陰陽・萬有一切の根本法則の総称であるから。あらゆる意義を包蔵し、生命そのものを顕はした言葉であり形式である。 地上一切も結びの法則によらぬものは一も存在しないから、 これらの言葉と形象を有する我が国は、その根底の如何に深く遠く広きかが思ひ知られるのである。
○浄化作用と拡大作用 松本道別師
元来吾人の霊魂は天神より付与されたるもので、清浄潔白なるべきものだが、 悲しいかな濁世に浮沈して薫習の久しき、すこぶる汚染混濁して雑念妄想無明煩悩に満たされ、 そのままでは到底清浄なる神の世界に入らるるべくも無い。 又吾人の霊魂は神の分霊とは云え、元々極めて小さく弱くして微力甚だしき者である。 故に死後上層なる神の世界に入らむとするには、浄化作用と拡大作用が必要であって、 その為に種々の苦行もすれば修養もし、以て年を延べ寿を益して不老長生しつつ、向上一路を辿るのだ。
○自修鎮魂法の要訣(要訳) 東嶽先生
鎮魂の法を修めようと思うなら、先ず人身の本源を明らかにし、その理を究めてから、その道を修めなければならない。 そもそも人の身は、霊魂と肉体とを以て成れるものなり。故に魂と魄との二つある、魂は天に属し、魄は地に属す。 天魂地魄と云い、また日魂月魄とも、陽魂陰魄とも云ふ、即ち神魂と胎魄(体魄)との二つであって、性と情とも云う。 この天魂と地魄の妙用を会得して、常に性を以て情を制し、日魂を養い月魄を錬り。陽魂を主として、陰魄を御する時は。 胎魄は神魂の命を奉じて、天地自然の妙理に応(かな)い、行う事で道に適わぬことは無く。 為す事として善にあらずということなく、ついに純良玉粋完全円満なる霊魂となって、 宇宙の大神霊と感合一体となるに至り、神聖得道の域にも達することを得らるるのである。 ここでもう少し人身の本源を細かく説いてみよう。 肉体は水と土との二種の性質より成れるものである。霊魂は火と風との二種の性質より成れるものである。 何を以てそれと理解するかと云うと。 人身が生きておる間は、体温が有って温かであり、動くものである。温かいのは火気であり、動くのは風気である。 イキテヲルとは、イはヒの転化したもので、実は「火来て居る」の義である。 また、イノチは「火の内」の義で「火の来て居る内」と云う事である。 シヌル(死ぬる)は「火往る−ヒヌル」で、「火去る−ヒイヌル」の義である。 ヒのシに転ずる例は、人をシトと云い、紐をシモ、御水(おひや)をオシヤと云うの類、枚挙に遑はない。 我が国語の中に、同義にてヒと呼ぶものが三種あり、日・火・霊の三つである。 この三つとも、照らすと温めるの二つの徳を具えて、生成化育を主(つかさ)どるものである。 霊魂は人の身体中に来たり寄り、人身の主宰をなすものであるが、 其の元は太陽天日に属して、実は天日(太陽)の微分子たるものなのである。 天魂・日魂・陽魂等の名称は、この事実より来ているのである事を、知るべきである。 次に、肉体は水と土との二種より成れるものなることは、 火去るにて霊魂が去った後の肉体は、元の水と土に復ることは、事実が証明している。 また、母親が子を孕むのは月経に関係している。 月経は、太陰つまり月が大地を一周する時間、27日と25刻余と周期を同じくしている、故に名付けて月経と云う。 かつ、人の生死も、潮汐の干満に関係が有る。満ち潮で生まれ、引潮で死ぬる。潮汐の干満も月の運行に関係している。 肉体が月と大地に深い関係がある事は、かくのごとしである。 地魄、月魄、陰魄の名も、これらの事実より起こっている事を知るべきである。 だから、人は、天地の精神、日月の霊徳の結合して成れるものなである。 貴重な存在であり決して軽んずべきで無い事は言うまでもない。 これが人身についての説明の大要である。 人の霊魂は風火の二種より成れるものであるから、風火の如く常に上に昇ろうとする性質である。 人の肉体は水土の二種より成れるものであるから、水土の如く常に下に下ろうとするものである。 昇ろうとする霊魂をその欲するに従い昇らしてしまい。下ろうとする肉体を欲しいままに下らせてしまえば。 頭熱足寒の人となってしまい、身体虚弱となり、百病これより起こり、 精神は上に去り、形体は下に倒れ、ついに霊魂と肉体との結束断絶して分離するに至る。これを死という。 だからこそ鎮魂法を行って。 常に昇ろうとする風火の性の精神を、降して下に居らしめ。 常に降ろうとする水土の質の形体を、昇らせて上に在らしめ。 所謂、頭寒足熱の人となって、肉体と霊魂との結合は強固となり、健康安全の身と成り、 どんな外気の侵略に遭うとも、少しも毀傷せらることも無く。 その極みはついに無病長生不老不死なるに至り、道を得るの緒に就くものである。 これが、自修鎮魂法の要訣である。 なお進んで、深呼吸を行い、胎息と成り。 或いは薬餌を用い、導引を勤め、若しくは飲食を節し、色欲を省き。 又は神咒を持し、秘文を誦し、なおかつ符を佩び、図を窺い。 飲食を節し、情欲を省き、愛精、養神、内端を主とするの類。その他、種々の方術があるけれども、 要するにこの霊魂と肉体との二種を妙応感合して一体と成らしめて、 永く相離れることの無い様にする道を求めるに他ならない。 その着手の法に至っては、筆端の能く尽くす所にあらず、ただ口訣に在るのみ。 大正五年八月十六日稿(平成22年6月15日要訳)
○自修鎮魂法入門秘訣(要訳) 東嶽先生
毎日、午前二時〜五時を以て、鎮魂法を行う、その順序下の如し。 先ず、東あるいは南に向かい安座す。 握固し(両の親指を内にし四指にて握る)、両手を左右の腰腹の間に柱 てる。 次に、濁気を吐くこと三回。 次に、歯を叩く(カチカチと歯を鳴らす)こと、左にて十二、右にて十二、中にて十二、合わせて三十六回。 次に、気を引きて息を閉ず。(息を吸って止める) 気を引きて息を閉づるは、これ最も修練の要妙なり。 先ず目を閉じ、妄念を掃い、雑慮を清め、心源をして湛然として諸念を起こらざらしめ、 出入の息、自から調和したるを覚ゆれば、即ち静かに鼻より気を引きて之を閉ず。 次に、心(心臓)を想ひて炎火の如くならしめ、光明洞徹にして、下腹つまり臍下丹田の内に入らしむ。 腹満ち気極まれば、徐 に口より気を出す。 その気出入りの音を耳に聞ゆること無からしむるを要す。(呼吸音がしない様に静かに呼吸せよ) このように深呼吸すること三回。 次に、呼吸が調い落ち着いたら、舌で唇歯の内外を攪き回し、津液を漱練す。 唾液中にもし鼻汁が混じて塩辛くなってもかまわない。 漱練が久しくなれば、自然に甘美の味を生ずる、これは真気を含んだ験(証拠)である、棄ててはならない。 次に、津液口中に満つれば、少し頭を下げて嚥下する、気を以て送りて丹田に入る。 意を用ふること猛精にして、津と気を合し、谷谷然として声ありて(ゴクンと音をたてて)ただちに丹田に入る。 以上の、深呼吸3回と津液の嚥下1回を、三度繰り返す。 息を閉ずること通じて9回、津液を嚥むこと通じて3回で終わる。 次に、頭を左右前後に揺かし、又左旋右旋すること、各凡そ3回 次に、左右の肩手を聳やかし、及び摩づること、凡そ5回 次に、左右の手の指を錬る。 次に、両手で顔面耳項等を摩ず、皆極熱せしむ。 次に、両手の指にて髪を梳る如くすること凡そ百 次に、左右の手を以て両乳及び臍下丹田を始め腎堂腰脊間を熱摩し皆熱徹せしむ。 徐々にこれを摩すべし、微汗出るも妨げ為し、たたし喘息するを嫌う。 次に、左右の足部を摩づること凡そ5回 次に、左右の足の指を錬る。 次に、左右の脚心、いわゆる湧泉の穴を熱摩す。 次に、立ち、あるいは仰向けに、あるいは俯し、あるいは伸び、あるいは屈みて、身体を錬り気血を全身に満たしむ。 次に、寝床の上に安座し、息の出入りを数えること凡そ二十五。 息は鼻より引きて、口より出すべし。 畢わりて、安臥し熟睡して明旦に至る。もし時間無きときは、ただちに起き出すも嫌うこと無し。 委しくは口授を要す。
○「つつみ」の意義 (神典形象)松浦彦操師
「つつみ」とは、包むべき中味を本体として他のもので隠し覆ふことを謂ひ、 「つつみ」の語意はその中に何ものかを宿すことを意味してゐる。そして宿される中味になるものは何であろう。 つつみの「み」は、真・善・美、又は身を意味するから、 それは、真なるもの・善なるもの・美なるもの・万有と自己自身の本体、を宿すことに外ならない。 故に神典形象の「つつみ」は、 その中に我々が常に自身の本分として守り謹みて行はねばならなぬ真理が秘められているといふ義になる。 口伝によれば「つつみ」はまた「つつしみ」とも称し、神訓を謹み畏みて、身にしみて承認させるものといふ義で、 この中味、すなわち神訓に背けば「つみ」となるぞと教示されてゐるものだといふ。 よく一般では「つつみ」は「つつみかくす」ことだから罪を意味すると説かれてゐるやうであるが。 それは「つつみ」本来の意義ではなく「かくす」といふ言葉が結びついて出て来た意味である。 「つつみ」は要するに真理の形示であり、神訓なるが故に、これに逆ひ、これを害し、これを誹謗する等のことあらば、 即ち「つみ」となるといふ事を伝へた大和言葉である。