鰹雑学 menu
「ふ〜ん」とか「あらそうなの」と言うよな事を書いてみたいと思います。食べたり人から話を聞いたりするすると増えて行きそうなので、管理人が飽きなければ息の長いシリーズになりそうです。
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名前の由来:
 カツオは、古事記や日本書紀「万葉集」にも登場するほど古くから食用にされてきた魚だが、身質が柔らかく傷みやすい魚のため、生食されるようになったのは鎌倉時代以降で、それ以前は、堅くなるまで干してから食用とされていた。そこから「カタウオ(堅魚)」と呼ばれるようになり、それが略されて「かつお(鰹)」と呼ばれるようになった、というのが通説である。また、戦国時代から江戸時代にかけての武家社会では、「勝男」に通じることから縁起物とされた。
鰹=松魚=堅魚など色々ありますね。

雑 学 高知のたたきの色分け
高知県内のタタキを大別すると3種類あります。県西部の『しようゆだたき」中央部の「ニ杯酢のたたき」東部の「ゆの酢だたき」。他に「三杯酢のたたき」など、それぞれタレや薬味が異なります。最近ではマリネやカルパッチョとして楽しむ方法もあります。
川 柳
目には青葉山郭公初松魚 
山口素堂(一六四二〜一七一六)
用字についていえば,郭公がホトトギスというのはともかく,鰹を松魚と書かれては現代人にはちょっと読めない。
しかし,そんなことには関係なしに,ひろく人びとに親しまれている。江戸っ子の初物好きは念がいっているが,なかでも初鰹を珍重する風潮には,この句の影響があずかって大きかったものらしい。松魚=鰹は難しいですね。目に青葉と思っていたら、目に「は」だったんですね。

 川 柳
目も耳もたゞだが口は高くつき
色鮮やかな青葉やホトトギスの鳴き声はただで楽しめるけれど,初鰹を味わおうとするとびっくりするほど高価だ,俳句に詠むぶんには安いものさ,という皮肉たっぷりのパロディーである。
確かに現在でも他の魚と比べると高いような気がしますね。

川 柳
まな板に小判一枚初鰹
鰹がもてはやされるようになったのは戦国時代からだという。ひとつの逸話がある。
一五三七年(天文六),小田原で漁を見物していた北条氏綱の小舟に一尾の鰹が飛び込んだ。こじつけでカツオすなわち勝つ魚,戦さに勝つという名のめでたい魚を掌中にしたと氏綱は大喜びし,すぐさま兵を起こすや怒涛のごとく上杉朝定を打ち破り,武蔵の国を平定したというのだ。以来,武士は出陣の酒肴に鰹をさかんに用いては気勢を挙げ,徳川家も代々縁起物として賞味した。
この風習が町人のあいだにも普及し,やがて熱狂的なまでの初鰹礼讃となったらしい。値は当然のようにはね上がる。前掲の"目も耳もたゞだが口は高くつき"という川柳にそれは表われているが,もっと単純直截に詠んだのが,つぎの其角の句である。

川 柳
聞いたかと問へば喰つたかと答へる 
目には青葉山郭公初松魚"という句をふまえている。ホトトギスの初音を「聞いたか!」という出会い頭のあいさつに,すかさず初鰹を「喰ったか?」と応じる。
ホトトギスの初音を「聞いたか!」という出会い頭のあいさつに,すかさず初鰹を「喰ったか?」と応じる。
確かに、ちょっと呑みに行って、鰹入荷などと書かれてたら思わず注文しちゃいます。

川 柳
あす来たら打(ぶ)てと桜の皮をなめ
 ひさしぶりに鰹の刺身を楽しんだら中毒してしまった亭主が,女房に「明日あの魚売りのやつがまわってきたら,ぶんなぐってやれ」と桜の皮をなめなめ毒づいているのである鰹は,とれて二日ほどたったころがうまい。一本釣りの漁師もとりたては食べないものだという。
いっぽう,鰹は傷みやすい魚だ。保存技術が発達しないころは毒魚ともいわれ,生は敬遠された。鰹で食中毒をおこす,これを酔うといい,頭痛がして顔が真っ赤になるという。経験がないので真実のほどはわからないが,桜の皮をなめると治るとの言い伝えもある

そこまでしても食べたかったのか?危ない魚は分かると思うが・・・。

川 柳
「初松魚(はつかつお)女の料(りょう)る魚でなし」
高い初鰹は、慎重に料理する。気の小さい女性では、値段を聞いただけで手がすくむという。
確かに高いときは値段を見ながら恨めしく思うことが今も・・・。

女房を質に入れてもNo1
初夏に出回るカツオを初鰹という。昔から、初物を食べると75日余分に長生き出来ると信じられ、江戸っ子は、初物を好んで食べた。江戸時代中期頃までは、初鰹は高価な物だったことから、「女房を質に入れても食べたい」といわれるほど。
女房を質に入れても No2
「女房を質に入れてまで…」と珍重された初鰹。江戸っ子の初物志向もさることながら、そのいたみやすさのために、いい状態の鰹を食べるには大変な労力と費用がかかったということも事実でした。 また武士の間では、鰹を「勝魚」と、縁起をかつぐ風習もあり、初鰹の値段はうなぎのぼり…。
 当時の鰹の水揚げ風景はというと…房州あたりに揚がった鰹、それ急げ!と6人乗りの手漕ぎの小船に移され、夜駆けで運ばれます。 こうして初鰹は早朝、日本橋の魚河岸に到着。 そこには料理屋ご指定の魚屋が待ち構えていて、瞬く間に一尾が二両ほどで取り引きされていきます。その頃の二両といえば、単純に計算しても今の20万円。 貨幣価値を考えたら30万円から40万円になったとも。
 ところが、2〜3週間して走りの時期が過ぎ、希少価値がなくなると、値段も一気に100分の1ほどに下がる。 が、それを買ったのでは武士が、いや男がすたると、女房を質に入れてまで、 という言葉ができたのです。 大枚をはたいて買った鰹のあらや骨をこれみよがしに、家の前に出しておいたというのですから、その見栄っ張りぶりといったら、今の江戸っ子の比ではないかもしれません。
貨幣価値については、いろいろな説があるようですね。
雑 学
生の鰹は下魚としてあまり歓迎されなかったという意外な事実は,鎌倉時代も末期,一三三〇年(元徳二)ごろに成立した兼好法師の『徒然草』からも読みとることができる。
 その部分を意訳してみると――
鎌倉の海に鰹という魚がいる。このごろはよく食べられているようだが,鎌倉の年寄りがいうには,「わしらの若いころには,りっぱな人の膳になど載ることのなかった魚じゃ。頭などは貧乏人でも食わずに捨てておったのにのう」。世も末になると,こんなものまで上流社会に入ってくる。嘆かわしいことよ。
マグロのトロも今では高級品!捨ててた頃に行きたいな〜。
香りが命
料理番組などで、焼いたものを氷水に入れているのなんか見かけるが、本場高知ではそんなことはしない。第一、そんなことしたらせっかくの鰹が水っぽくなって台無しになってしまう!この焼きに、ワラやカヤなどを使うこともあるが、それはその焼きたての香りを風味付けとして味わうためだ。鰹のタタキは香ばしさも命。だから造りたてを、まだ温かいくらいで食べる。決して氷水に入れたりしない。とお怒りの方も居られるが、タタキは香りが命?.冷水に入れなくても火は通らないよ。通ってたらそれは焼きすぎです。
炭焼きたたき
謎がとけた・・・。
下から強制的に風を入れ強烈な火を作ってます。
炭焼きって遠火の強火で遠赤効果が云々って言ってなかったっけ?
でも一回焼いてみたいですね。
たたき?焼き切り
鰹を火であぶったものはすべて「タタキ」と思っている人も多いが、実は違う。鰹には「焼き切り」と「タタキ」がある。「焼き切り」は鰹だけでなく、いろいろな魚の節の背皮だけをあぶったもの。「鰹のたたき」は全体を火であぶる。
雑 学 たたきルーツ?No1
江戸時代、土佐藩の殿様は食中毒を恐れて『鰹を生で食べてはいかん』というおふれを出したそうです。
ところが、どうしても生で食べたい人々は、表面をサッとあぶり「生じゃないゾ」と、しっかり食べていたとか。
こうして生まれた鰹のたたき。
雑 学 たたきルーツ?No2
今や全国的に有名になった「鰹のたたき」ですが、つい数年前まではそのルーツが解明されていませんでした。古い書物に「たたきという料理は薩摩、紀伊、伊豆、房総にもあり」とあります。そこで、平成3年に、昔から黒潮の恵みを受け、鰹と深くかかわってきた各地を調査した結果、紀伊半島の那智勝浦と薩摩半島の枕崎市に鰹の表面を焼いて刺身に作り醤油で食べる土佐でいう「焼き切れ」がありましたが、塩やタレをかけて叩く「たたき」は土佐だけということが判明しました。「鰹のたたき」は、「焼き切れ」が発展していったと考えていますが、土佐の中でも、土佐清水を「たたき」発祥の地と考える理由は、「焼き切れ」と「たたき」が明確に区別されていること。そして、醤油が貴重品であった時代に塩をふって食べていた「塩たたき」が伝承されていることです。したがって土佐清水に伝わる「鰹のたたき」こそ先人の生活の知恵が生んだ本物の「たたき」といえましょう。
いろんな話が・・・。謎です
雑 学 たたきルーツ?No3
たたきの最も古い調理法と考えられる「塩だたき」という名称は、足摺半島でも東海岸に位置する窪津では聞かれないが、沖の島では採集できる。足摺岬には塩だたきが伝承されている。磯魚の焼き切りはしょうゆで食べていた、という地域が大半であるが、これは時代が下がってからのことであり、土佐清水市下川口では、酢みそか、あるいは湯ざまし(熱湯を冷ましたもの)でみそを溶き、これで食べていたという、焼き切りの最も古い食べ方と考えられる話を採集することができた。
雑 学 たたきのルーツNo4
江戸時代のたたきの作り方を記した『萬聞私記』が延享元年(1744)であるので、その後のたたきの出現に手がかりになりそうな記録を年代順にあげると
1.享和四年(1804)
『森家日記』に 猪口 たたき

2.天保一五年(1844) 
『柏島記』にソジと言魚のかけ魚をやき切にして
3.弘化二年(1845) 
『岡家陳上献立』に 小皿 鰹たたき
4.明治二六年(一八九三) 
『割烹終業授業日誌第二輯』に松魚のたたき。 先ず松魚を四節におろし薄塩をいたし金串を刺して其場合肉となる所は少しく下身となる部は、久しくふすべ終れば刺身となし而して又食塩をほどよく散り酢及醤油を混じたるものを注ぎかくる也
5.年代は不明 
江戸時代と思える岡家の記録の中に「丁卯二月廿九日吉辰婚禮引渡」と記した科理献立があり、それに 小皿 酒盗 奈もの 小皿 鰹叩喜とある。さらに「十一月十四日吉辰婚禮」と記した料理献立には小皿 鰹焼作小皿 酒盗 奈もの以上の資料で見ると、明治二十六年までに、現在のたたきが出現していることがわかる。この資料の中で私が最も注目するのは、5の年代は不明であるが、岡家の料理献立である。「鰹叩喜」というのは江戸時代初期のものか、現在のものかはっきりとしないが「鰹焼作」は、カツオの焼き切りと考えてよいと思う。
そこで問題は、料理献立が書かれた年代である。十一月十四日の献立へ手がかりがないが、丁卯二月廿九日の「丁卯」を『高知県歴史年表』で見ると、延享元年以降は延享四年(1747)と文化四年(1807)、慶応三年(1867)である。
この中で、延享四年は延享元年からわずか三年後であり、しかも延享四年から57年の後の享和四年の森家日記に「猪口たたき」とあって、器物が猪口ということで江戸時代初期のたたきであろうと考えられるところから、年代が早いように思う.
たたきもやっぱり不明なことが多いですね。献立がかかれてると言うことは、献立の無い物もあるはずだからますますなぞですね。?
雑 学 異変?
高知のかつおのとれる時期は“上りかつお”は3月上旬から
5月上旬まで、“下りかつお”又は“戻りかつお”は9月上旬
から11月上旬までです。本年はおもしろいことに、1月2月のかつおのとれない時期に、中土佐町土佐久礼沖において“下りかつお”が多くとれました。これは“下りかつお”が何らかの原因で、台湾沖まで行かないで土佐久礼沖にとどまったと思われます。今から2年程前に高知県が沿岸から10km沖に6〜7ヶ所の“浮き漁礁”を作りました。
そこに一部の“下り鰹”がとどまったようです。
ちょっと古いですが、2001年の記事です。うれしいような・・・。
漢 字
「かつお」を漢字で書くと「鰹」と思っているが、実は「国字」つまり「わが国で作られた漢字(和字)」だそうです。『万葉集』などに「堅魚(かたを)」 と二文字で書いていたものが一字に縮まって、つまり合字して鰹になった。中国で使っている、つまり漢字本来の意味は「ウナギ」「オオウナギ」だそうです。
中国から漢字が入ってきた時、鰹=ライギョだったと言う話も・・・。
ことわざ
「猫にかつお節」があります。国語辞典,ことわざ辞典などに色々説明されていますが「好物をそばにおいては油断がならない」たとえです。
同類のことわざに「猫のかつお」,「猫にかつお節の番」,「猫の額のかつお節」その他にも数多くあるようです。もちろん人間のための辞書で,猫は読みませんから「誤ちをおかしやすい状態にあるから」という人間に向かって注意を呼びかけているのでしょう。

後こんな川柳もあります。
●鰹ぶし食ひにする借りた猫
●せはしない猫かつぶしでくらはされ
●花鰹小猫の鼻が寄って来る
●小猫また鰹をもってお嫁入り
●貫之は猫をおひおひ荷をほどき

たたきのケン
タタキのケンと聞いてあなたは何を連想しますか?土佐人なら、大根だけでなく、玉 ネギ、キャベツ、リュウキュウ、キュウリ・・・・どうです? 初鰹の頃には、ニンニクも玉 ネギも、新モノが出始め、その相性は抜群!また、夏の盛りにはリュウキュウ(ハス芋の茎)の採れたてを薄くそぎ切りにして、水にさらし、アクを抜いてタタキや刺身のケンにして食べる。塩でもんで酢ものにすることはあっても、こんな食べ方、他ではちょっと見つからないと思うが・・・・・。鰹は季節ごとに味を変える。それと同様に、野菜にもそれぞれ旬が巡ってくる。地元で採れる旬の生野菜と、季節ごとの鰹と絶妙にフィットするのが不思議で面 白い。もちろん付け合せも、季節の香りや彩りを大切にすることは言うまでも無い。

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