(2013第10回)親子旅はシベリアの町へ −最終回−
ロシア最後の夕食を日本レストランでとることにした私たち親子。あの日本を代表する料理には、高〜いお値段がついていた。敢えてそれを頼んだのだが・・・。
【第3日目 9月22日(日)ホテルの日本レストラン】
日本語の通じない日本レストラン
「ロシア最後の夕食やき、ちょっと値がはるものを食べてみよう」
「ウェイトレスは和服姿やろうかね?」
と娘に話しながら、日本レストランの暖簾をくぐった。
入ってみると、室内は、あまり広くないものの、造作は日本の和風レストランと変わりない。ビールも日本製のものが置いてある。ただ、ウェイトレスは、全員ロシア人であり、日本語はもとより英語も通じない。そして、着物ではなく洋服姿なのは仕方ないとしても、このホテルの他のレストランと同じく愛想がない。
ロシア風?すき焼き
私たちは、メニューの中から「すき焼き」を2人分注文した。お代は1人前1,000ルーブル=3千円。この国の労働者の収入を考えると、べらぼうな料理代である。
アサ○ビールをジョッキで飲んでいると、そのすき焼きが運ばれてきた。お1人様用の小さな鍋が2人分。中には、一応すき焼きらしき料理が。しかし、食べてみると牛肉は厚くて固くて、日本のすき焼き用肉とは、全然違ったものだった。また、青ねぎかと思った野菜は、何かの茎。娘は「これ、ゴボウの茎じゃない?」と言う。
生卵を頼んだつもりが・・・
それと、日本ではすき焼きに必ずついてくる生卵がない。別注しようと思い、ウェイトレスに英語とロシア語まぜこぜで「ロー・エッグ、バジャールスタ」と言うが通じない。仕方なく、ジェスチャーで卵を割って小皿に落とす仕草をしてみせた。
ウェイトレスが「分かったわ」という表情を見せたので安心。だが、彼女は、なぜかナイフとフォークを持ってきて、テーブルの上に並べた。
私「目玉焼きか何を注文したと勘違いしたがやろうかね?」
娘「そうかも。何か卵料理を持ってくるがやろうね」
私「まあ、卵料理でも仕方ないかな」
ところが、待てども待てども、卵料理も何も、全然出てこない。
娘「卵を割る仕草を見て、ナイフとフォークを動かす仕草と勘違いしたがやない?」
私「ははぁ、な〜るほど」
言われてみれば、そうかも知れない。ウェイトレスは、注文を受けたとは思っていないのだろう。
娘「そもそも、こちらでは生卵を食べる習慣がないがやないかなあ?日本やったら食品管理が徹底しちゅうき、生卵も安心して食べられるけど、こちらはナントカ菌にまみれた卵が多くて、火を通すことが当たり前で、生卵をお客さんに出すことなんか、考えつかんがやない?」
私「うーーーん」
【第4日目 9月23日(月・祝)帰国】
交通混雑
いよいよロシア最終日である。今日は、もう帰国するだけ。
ルーブルが少々残っているので、使い切ろうとホテルの売店を覗くが、品揃えが少ない上に買って帰りたくなるような物も見つからない。そうこうしているうちに、ナターシャさんが迎えにきた。もうロシア滞在も残すところ4時間ほどだ。
「少し早いですが、道路が混みますので、出ましょう」とナターシャさん。
ホテルを出ると、なるほど、道路は車の洪水である。故・宮脇俊三さんは、31年前のこの町のことを「車も少なく、乗用車はほとんど見かけない」と書き記されているが、今は様変わりである。そもそも、今日は日本では「秋分の日」という休日だが、こちらでは通常の勤務日なので、通勤ラッシュのさなかである。トロリーバスも普通のバスも大勢の乗客を乗せて道を行く。
道路脇に太い金属製のパイプ。地域暖房用の給湯管なのだそうだ。一昨日、日本人墓地参拝の時に花を買った露天の花店も店開きしていた。
ロシア人の寿命など
通り過ぎる町の景色をワゴン車の車窓から眺めながら、ナターシャさんが解説する。
「あれが郵便局です。この国の郵便は、とても遅いです。国内でも届くのに1ヶ月かかることもあります。日本に国際郵便を送ったら、もっと時間がかかります」
「この国の人は、甘いものが好きでよく食べるし、特に男性はよくウォトカを飲むので、寿命が短いです。つい最近まで男性の平均寿命は50歳代でした」
帰国後に調べたら、ロシア人の平均寿命は、1994年には男性が57.6歳だったところ、2008年にはなんとか61.8歳まで延びている。女性はまだマシだが、それでも1993年には71.2歳。2008年に74.2歳になっている。
確かに、この国の中年以降の人々は、超ビッグな体型の人が多い。保健当局は、頭が痛いことだろう。
生卵を食することはあるか、尋ねてみた。
「ロシアでは、基本的に生卵を食べることはありません。ただ、家で鶏を飼っている人が産み立ての卵を生で食べることはあります」とのことだった。
やがて、40分ほどでハバロフスク・ノビイ国際空港に到着。昼間見ると、特に何の特徴もないローカル空港という趣である。
ダスヴィダーニヤ
空港のセキュリティチェックの手前でナターシャさんとお別れである。彼女には、この4日間、ずっとお世話になった。ほかのツァーで経験したような土産物店のハシゴなどに連れ回されることや押しつけがましいことは全くなく、初めてのロシアを気持ちよく案内してもらった。改めて感謝!である。
私たちは、手を振りあって「ダスヴィダーニヤ」(さようなら)「お元気で」と言い合った。
出国は簡単
どこの国でもそうだろうが、自国民でなければ、出国の際は入国と違って、手続きも比較的簡単である。何かと面倒なロシアのお役人も、観光客の出国審査はすんなり通してくれる。
この空港でも、客用の椅子は、1階ではなく、階段を上がった2階に備えられていた。どこからどこまでも、バリアフリーを考慮外に置いた国だと改めて感じる。
搭乗待ちの客は、日本人の団体が大勢。かなり年輩の人々ばかりである。別の会社のツァーではあるが、ハバロフスクのどこに、こんなに日本人が居たのだろうか。よく考えると、今回ほど、旅先で日本人に会わなかったことも珍しい。
なぜ外国の航空会社?
空港内の免税店でルーブルを使い切った後は、何もすることがない。
ロビーで、ガラス越しに滑走路を眺めながら娘が尋ねる。
「なぜ、お父さんは、いつも外国の航空会社ばっかりなが?」
言われてみれば、娘との親子旅は、いつも外国のエアライン利用である。ハワイはユナイテッド航空、カナダはエア・カナダ、欧州とシンガポールは中国東方航空。そして、今回はロシアのS航空。
別に日系航空会社を敬遠しているわけではない。むしろ、その方が便利だし、サービスも行き届いている。たまたま、選んだツァーが外国の航空便利用だっただけのことである。
要するに、旅行代理店がツァーを組むに当たって、経費を比較したら日系よりも外国エアラインの方が航空券を安く入手できる、だから、旅費が安く上がり、集客しやすくなる、ということだろう。
私自身は、外国籍の航空機は不便な反面、楽しみもあると感じている。成田、関空など日本の空港で搭乗した時点で早々と異国の雰囲気に浸れるし、また、各エアラインの所属国の言語を俄か勉強して、CAさんと会話をし、それが通じた時は嬉しい、といったささやかな楽しみである。
海外旅行の醍醐味は「不便を楽しむこと」にあると言う人もいるが、そういうことは確かにあると思う。
離陸
出発時刻が近づいた。私たちは、また空港内のバスに乗って空港の端の方に駐機していたS航空機に乗り込む。往路と同じ会社である。
着席して、シートベルトを締めると、ほどなく離陸。眼下にハバロフスクの町が、アムール川が見えてきて、やがて雲の下に隠れた。
思えば、いろいろトラブルもあったが、今となっては、楽しい思い出が多いロシアの旅だった。
出発前には「ロシアへ行くことは、もうこれ一度きりだろう」と思っていた。「どうせ、もう二度と来たくないと思いながら帰国するだろう」とも予想していた。
しかし、翼の下に広がるシベリアの大地を見ながら「次はバイカル湖の畔、イルクーツクなんかも訪れてみたい。サンクトペテルブルクのような古都も一度は行ってみてもいいな」と思っている自分がそこにいる。
そして、もし事情が許せば、またいつか、娘と2人、お気楽な親子旅をしてみたい。
まもなく、この景色も、氷雪に閉ざされ、白一色の景色になるだろう。ナターシャさん、ヒョードロフさんご一家は、どんな毎日を過ごされるだろうか。どうか皆さん、お元気で。
北の国ロシア、北の町ハバロフスク、ダスヴィダーニヤ。
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私が初めてロシアに興味を持ったのは、中学時代に手にしたレコードに収録されていた「モスクワ郊外の夕べ」(リンクはこちら)を聴いた時だった。こんなにも美しい歌曲があることに感動した。
そして、なけなしの小遣いをはたいてLP版の「ロシア民謡集」を買ってきた。その多くは、哀調を帯びたメロディー。比較的新しい曲も混じってはいたが、これら短調の名曲は、ごく一部の貴族の下で大多数の国民が農奴として虐げられてきたこの国の歴史がバックボーンとなって生み出されたのだろう。
文中でお察しのとおり、私は、ソ連ないしはロシアという国に対して決して好意は持ち合わせていない。しかし、これらの民謡や歌曲を愛唱する人たち=一般庶民に対しては、限りなく親しみを感じてもいる。
この拙文は、わずか3泊4日の、しかも、さして観光地とてないシベリア東部の一地方都市とその周辺を訪れただけの旅行記である。それが前回の8日間に及ぶ英国旅行の記録を上回るボリュームとなってしまった。これは、私の文章力の欠如によるものではあるが、印象に残ったこと、皆さんに読んでもらいたいことがとても多かった、ということもその原因である。
長々と駄文・拙文にお付き合い下さった皆様に心からお礼を申し上げて、この旅行記のフィニッシュとしたい。
親子旅はシベリアの町へ −完−
(2013/12/29)