北部ルソンでの悲惨

高知県で編成された大隊、兵員1280名がフィリピン・ルソン島、 
イフガオ州ファームスクールで壊滅したのです。
北部ルソンの状況は、想像を絶する悲惨なことが、おきていたのです。


北部ルソンで戦死した127,000名の遺族の方は、今でもその場所、状況等を知りた
く思っている。帰還できた人が、書き残した書物をさがしだして、知るしか方法はなく、
またその書物を探し出すのも大変なことなのです。

不本意にも召集されて、なぜこのような他国の山奥で、野垂れ死にしなければならないのか、
死ぬとき本人はどのような思いだったのか・・・・

遺族としては悲惨な状況で、あればあるほど、もっと詳しく知りたく思う。
そして、同じ死ぬなら苦しまずに死んでいて欲しいと思うのです。
何度も涙で中断しながら、パソコンにむかいました。

書物を出した人には、感謝しております。図書館の書棚の奥に埋もれてしまっては
死んだ者もうかばれません。断りもせず遺族の方に紹介さしてもらいました。

<もくじ>

T.北部ルソンでの出来事

U.ファームスクールの状況       

V.アシン河谷への逃避行
製作者

高知市
松井浩一 


Eメール
kimiko@kcb-net.ne.jp

更新日;2010.06.28
.


北部ルソンでの出来事

高知県で編成された西部第34部隊、独立歩兵第184大隊(二宮中佐)
(比島派遣勤6455、威10669)、兵員1280名が壊滅したのです。

終戦後帰還出来た者190名あまり。

その状況は、アシン 回想の比島戦 一木千秋氏 早稲田速記より

ファームスクール、三角山の二宮大隊の陣地は連日、観測機とラムット河南岸に
進出した砲兵との連絡の下、正確に砲撃が加えられ、ひとつ、ひとつ陣地がしらみ
つぶしにされ、砲煙が三角山の頂上を残して、4号線に面した斜面一帯は、白煙で
渦巻いていた。・・・ 

 

それは、フィリピン国 ルソン島 イフガオ州 ファームスクール(現在はナヨン)。

昭和20年6月16日から6月28日のことです。

第14方面軍は在留邦人をつれて、アシン河谷へ逃げ込んで行くのです。
北の入り口はボントック、東の入り口はバガバック。
この話は、バガバックより始まる。

フィリピンはマニラから国道5号線が北に向けて、背骨のようにぬけて、北海岸
アパリに至る。

カバナッツアン、サンホセ、バレテ峠、サンタフェ、ボネ、アリタオ、バンバン、マト
ウ橋、バヨンボン、ボンハル、ソラノ、バガバック、オリオン峠と米軍が、5号線沿い
を進撃する。それは血で塗られた国道沿線となる。

北部ルソン略図 
アシン河谷への道

国道5号線はマニラより北の郊外に向けて続いてゆく
サンホセから山道になり17,040名の戦死者を出した
バレテ峠サラクサク峠
……高知の部隊もここを
オリオ
ン峠へむけて、落伍者は放置して、急行軍してゆく。
それは昭和20年1月上旬

バレテ峠



5号線バガバックを左折して、4号線が山の中に向けて続いていく、これはラム
ット、ファームスクール、サントドミンゴ峠、イフガオ三叉路、そして橋を渡りバナウ
ェ、ボントックへと抜けている。

ファームスクールは4号線に沿い、周囲に広い畑があり、見晴らしも開けている
町外れから山道が山奥へ続いていく。

このファームスクールからサントドミンゴ峠を越え、そして4号線を外れ細い山道
を、通りキアンガンの集落に至る、さらに細い山道が続き、パクダン、プロイ山、マ
ゴック、そしてアシン河谷へと、逃避行したのです。
しかし、行き着いた先は、この世の地獄でした。

高知県で編成した部隊は昭和20年5月31日から6月3日に、このファームスク
クールに布陣する。それは軍及び在留邦人をアシンの複郭陣地に収容するため
の時間稼ぎで、6月いっぱいまで米軍を阻止するためであった。

目的は達したが、部隊は壊滅状態となり、6月28日サントドミンゴ峠へ命令に
より迂回して後退してきたときは、バラバラになった200名ぐらいになっていた。

ここで高知県で編成された部隊の説明をする。

フィリピン戦の回想 山本正道氏より

西部第34部隊(歩兵第144連隊補充隊)に臨時召集して、昭和18年12月1日
独立歩兵第184大隊を編成する。(兵員1280名)大隊長は二宮昇中佐(愛媛県松
山出身)。



終戦後内地へ帰還できた者は、隊長、副官以下、190名あまり。
約1100名が戦死。いわゆる未帰還兵。 85%の損耗率。

部隊名は最初は西部第34部隊、比島派遣勤6455部隊、比島派遣威10669部隊
と変わっていく。
独立歩兵第184大隊の正式名称は伏せられて、戦地からの軍事郵便にも書かせ
ていない。

このとき、フィリピンのルソン島守備部隊 勤 師団に四国の四県より4ヶ大隊
編成している。香川県は独立歩兵第183大隊、高知県独立歩兵第184大隊、徳島
県独立歩兵第185大隊、愛媛県は独立歩兵第186大隊。

また九州からも同じように独立歩兵大隊を編成してフィリピンに送り込んでいる。

同じ県で連隊規模の編成が、もはやできないくらい、召集をかけているので、
独立という名をつけて、大隊規模で人数は少ないが連隊の機能をもたせている。

通常は一個連隊は3ヶ大隊編成になる。
高知県では44連隊、144連隊など、連隊を編成して、中国、ニューギニアなどに
派遣している。



ファームスクールの状況

アシン 回想の比島戦 一木千秋氏 早稲田速記より

ファームスクール周辺には病院や食糧倉庫が森林や竹薮に隠されていたので、
病院の解散後も多くの負傷兵が集まり、また破壊された車の下にたむろして、食料
を求め、この付近までたどり着いた邦人も加わり、難民の群れが出来ていた。

女子供もおり、手を差し伸べて、食料を求められても、助けようにも、助けられぬ惨
めな様相であった。

これらの人々は、米観測機も砲撃も無関心で、ただ死を待つ以外のなにものでもな
かった。戦場から一キロと離れていない、また数日で戦場となる地域で取り残された
人間の最後の姿だった。

5号線バガバックより4号線に入り、5キロほどでラムット(ランタップ)村に入る。



ファームスクールの谷間

在留邦人や負傷兵で体力のなくなった者、高知県で編成された部隊など1000名以上の死者が、今もそのままになっている。4号線上り山道より谷間を下にみる。南無阿彌陀仏




▲4号線ファームスクール山中
5号線バガバックを左折して、4号線を15キロほどでファームスクールの町に入ってゆく、町外れから山奥にむけて山道が続いてゆく…。当時も咲いていたであろう、赤いブーゲンビリヤの花が美しく咲いていた。

戦跡を歩く 牧野弘道氏 ホーム社より

・・・ラムット橋から10キロほど入ると、右手の広い敷地に校舎が点在する。
ファームスクール(農学校)が見えてくる。

ここにマニラにあった南方第12陸軍病院が避難してきた。
この病院は最盛時には、勤務人員2000名、入院患者10,000名を越す南方
最大の陸軍病院だった。

昭和19年12月、最後の病院船で乗れるだけの重症患者を内地へ送還し、
病院はバギオへ移動する。250キロを約1000名の軽症患者がほとんど歩い
ての転院だった。

やがて米軍はバギオの無差別爆撃をはじめた。屋根に赤十字のマークをつ
けた陸軍病院も例外ではなかった。さらに山中を百数十キロ歩いて、ファーム
スク−ルに、竹で組んだ病院を開設した。それは昭和20年3月31日。

ここで米軍突入直前の6月8日まで頑張って、さらにキアンガンの奥まで落ち
のびた。ここには、またバンバン周辺から運び込まれた莫大な弾薬、食料が、
山積みされていた。トラックが入るのはファームスクールまで。

そこから先、サントドミンゴ峠越えの山道は豪雨による山崩れで不通になっ
ていて、キアンガンには、運べない。6月12日夜、米軍は長距離砲で、ファー
ムスクール地区に猛砲撃を開始、兵站監が苦労して集積した軍需品の山は
一夜で灰になってしまった。

ルソン戦記 死の谷 阿利莫二氏 岩波書店より

サントドミンゴ峠に近づくにつれて、本格的な山道。足がぬかるみにとられ、体
の調子もいっそう悪くなる。人が群がり、夜は雑踏の観を呈していた。


▲サントドミンゴ峠 サントドミンゴ峠を4号線ファームスクール山道より見る

バラパラになって敗走する将兵、子供の手を引く邦人、大八車に荷物を積んで
山道を押し上げる転進部隊、捨てられた荷物が散乱するが、食べ物でなければ
振り向く者もない。・・・

峠を登りつめる手前あたりから、目を覆うような惨状。ここが車の限界なのか、
焼けたトラックや荷車の残骸が散乱し、人や水牛の死骸が放つ悪臭がたちこめ
る。ここまで運んできたものの、持ちきれなくなったのだろう。

捨てられた荷物が山をなしている。内地の紙幣がギッシリつまったトランクも蓋を
開けたまま。しかし、誰一人見向きもしない。

「助けて下さーい。兵隊さん、助けて下さーい。誰かー。お願いー」
掃射で足を射抜かれたらしい。若い邦人女性がひっくり返った大八車の下から
半身を乗り出し、絶叫し、声が枯れると弱々しい泣き声になり、再び絶叫する。

掃射があってから、丸一日以上経っている、あれからずっとこうして、叫んでい
るのかもしれない。しかし誰も振り向かない。誰もがうつろな眼つきで黙々と歩き
続ける。・・・

峠からキアンガンの本道につながる道は平坦だが、左側の山から崖が垂直に
下がり、人一人が通れるくらいの道を残すだけ、右は深い断崖絶壁。おまけに所
々滝のように雨が流れ落ちている。

とくに一箇所はその滝で道が崩れ、飛び越えて渡らなければならない。男性一
人でも息ずまる。子供の手を引いた母親が、脅えて立ちすくむ。

こういう道だから夜は歩けず、昼間歩く。空からこれを狙えば、またとない獲物
だが、無事キアンガンにたどり着く。

               5月も末である。

Gパン主計ルソン戦記 金井英一郎氏 文芸春秋より

昭和20年5月5日 このファームスクールから更に3キロ北に、キアンガンに入
る新道旧道の、分かれ目がある。


ファームスクールからサントドミンゴ峠、4号線をはなれて
キアンガン、パクダン、プロイ山、アシン河谷へと入ってゆく

この三叉路に307道標(マニラ北方307キロ)がある。この地域一帯が日本軍の
糧秣交付所となっている。

このファームスクールの三叉路が、キアンガンへ流れ込む、日本軍将兵の転進
基地となった。ここを通過してキアンガン入りした、日本人はもう二万人を超してい
るという。

いずれ米軍が到着するまでの、みじかい寿命の、転進基地だが、病院と
糧秣交付所があるため、敗走日本兵には、メッカのような、憧れの響きをもつ地名
だった。

栄養失調と赤痢、マラリヤ等で体力が消耗して、亡霊のようにやつれた、傷病兵
が杖をたよりにたどり着いて、ここがファームスクールだと、その名を聞いて息を引
きとって、しまうことも少なくない。

敵地をようやく逃れ得て、籾がもらえるその安堵感で張り詰めていた気持ちが、
いっぺんに緩んで事切れてしまうのだ。 

ファームスクールは昼の間、人っ子一人、生き物一つ動く気配もない。
空には絶えず数機の、米軍機が舞って、彫りの、深い山襞に機銃掃射や爆撃を
加えている。

しかし、夕闇が谷をおおい、爆音が消えると、あっちの谷、こっちの谷
から、おびただしい日本兵や在留邦人が湧き出してきて、三叉路付近は身動き出
来ないほど、ごった返す。糧秣交付所に群がってくる。

糧秣を手に入れた人の群れは、やがて手に松明をかざして林間をジグザグに登
る。キアンガン旧道に吸い込まれていく。

危険な新道を避け、林間の旧道に集中す
るので旧道は不夜城のような賑わいとなる。
糧秣交付所は夜8時から配給を開始する。・・・

フィリピン戦逃避行 (証言昭和史の断面) 新美彰さん吉見義明氏
岩波書店より 


ファームスクールの山中で・・・途中で足が動かなくなって、しゃがんでいると、
『奥さん元気をだしなさい」といって、知らない若い将校さんが靴下にいっぱい
入ったお米をくれました。おもわず涙がでてきました。

お礼を言うと、この先に自動車隊があるから今夜はそこで休みなさいといわれました。

それで少し元気が出て雨の中を歩きました。兵隊さんが泊まっている小屋にお
願いして、やっとすみにおいてもらいました。お粥を炊かせてもらうために飯ごう
をかけると、もらって、中に入れていたお肉のにおいがし、皆が目を輝かせたの
で、少しずつ肉をわけてあげました。

翌朝、川辺におりてオシメを洗い、順子の身体をふきました。オシメが乾いたとこ
で、小屋に帰って兵隊さんにお礼を言って、出発しようと荷物を引き寄せたらとて
も軽いのです。お米、肉、塩、黒砂糖、ニンニクが全部なくなっていました。

カバンの中の食料はご存知ありませんか、と兵隊さんに聞いたら、「そんな大事
な物を置いてままにして、出て行くあんたが悪い、今は食い物が一番だ。それを
身体からはなすなど、うかつでしたなあ」といわれました。

ああ昨日、薄いお粥などせず、かたい米のご飯を炊けばよかったなあと思いまし
がた後の祭りです。子供をつれて、今夜から食べるものがないので、「兵隊さん、
お米と肉を少し分けて下さい」とたのんでも、皆知らん顔しておられます。・・・・

私の本を読んで「私も盗られたんですよ」といっておられた方が何人もおられまし
た。
 
吉見・・・・キアンガンまでの道は急な坂道で、大変つらかったようですね。
新美・・・・衰弱しているうえに、ジグザグの道を通らなければならないので、荷物
      を背負い、順子を抱いて上がることができないのです。
      順子の下痢はひどくなっていました。

      雨の中を濡れた毛布と順子を抱え、30メートル先に順子を置きます。
      それから引き返して、濡れて重くなっている荷物を背負い、順子の前を
      通り過ぎて30メートル前に置く。そして順子を連れにくるということを繰し
      ました。
      順子は取り残されたと思って、膝小僧から血を流しながら、雨の中を這っ
      てきます。キアンガンには夜中に、到着しました。・・・・

      ・・・さらに、この親子はパクダン、プロイ山、アシン河谷へと続く・・・

吉見・・・この頃には、すでに多くの餓死者が出ていたようですね。
     順子ちゃんの最後の様子をお話ください。

新美・・・はっきりした日にちはわかりませんが、8月7日頃、アシン河の三キロ下
     流の集落にいけば、まだ食える雑草があるから移動しなさいと領事館から
     いわれて、ゴソゴソと立ち上がりました。

     毛布と飯ごうと順子の着物のみを背負い、近藤のおばさんと一緒に移動
     しました。集落について前に抱いていた順子をみて、様子がおかしいの
     に気ずきました。兵隊さんの小屋の横で、乳房をだして口にあてがつて
     も吸い付かないのです。

     順子、順子と身体をゆさぶるが、目を開けてくれません。
     そのうちブクブクと泡をふきだしました。でもどうして、やったらいいのかわ
     からず泡をふくのを、すってやることしかできません。

     泡がでなくなったら、だんだん冷たくなってゆきました。
     私も、もう死んでしまいたい。もう生きて苦しむより死んでしまいたい。
     カサカサに乾いた目から涙もでない。

     順子を強く抱きしめました。
     私は「順子、今度生まれてくるときは、戦争のない平和なときに生まれて
     おいで」と祈りました。
     夫には「あなた、順子が死にました。わかりますか。今、兵隊さんがお経
     をあげてくださっています。これで私を許して下さい」と謝りました。・・・

吉見・・・大変つらい思い出をお話しいただきました。敗戦前後の短い期間に、たく
     さんの在留邦人がルソン山中で飢餓や病気で亡くなっています。

     たとえば、中嶋静恵編「ルソンの山々」に収録されている長井精子さんの
     手記をみますと、1945年1月にボンハルで比登美ちゃんという赤ちゃんを
     産みますが比登美ちゃんはキアンガンで亡くなります。
     長井さんの夫もマニラ市街戦で戦死しておられます。

     その長井さんは、敗戦直後ホヨ渓谷からキアンガンに向かう途中でやつ
     れ果てて、うずくまっている宮北テルエちゃんに出会います。

     ボンハルにいたとき、テルエちゃんは比登美ちゃんを抱いてあやしてくれ
     たのです。かたわらには弟の巌夫ちゃんが死んでおり、テルエちゃんは
     「おばさん塩ちょうだい」といいます。彼女のお母さんは少し前に近くの山
     で死んだのです。

     長井さんはあげるものはなにもない。しばらくたって、投降するための移
     動のさいに、やっとの思いでテルエちゃんを捜したら、同じ場所で死んで
     いたといいます。政治学者の神島二郎さんは、1944年末、見習士官とし
     てルソン島に飛行機で派遣されましたが、山道を行動しているとき、この
     姉弟と路傍に、つっ伏している母親に出会ったことがあると記しています。
     新美さんはもしかしたら、この人たちと山中で出会ったことがあるのでは
     ないかと思うのですがどうでしょうか。

新美・・・いいえ。長井さんはホヨ方面に行かれましたが、私はパクダンからプロイ
     山を越えアシン河の上流におりました。
     キアンガンでは「子供が死んでいる。おめめをあけて、としちゃん」と叫び
     ながら泣いておられる奥さんをみかけました。駆け寄ってみると、子供は
     順子のように痩せて、瞼があわずに死んでいました。ようやくここまで、
     たどりついて背中の子供を降ろしてみたら死んでいたのです。

     お母さんが早く亡くなりますと、子供たちはその場から離れることができ
     ず、白骨になっている母にしがみついて、次々と亡くなってゆきます。
     金貨メリヤスの金沢総支配人の奥様も、二人の子供たちとこのような
     姿で亡くなっておられたとききました。・・・

パクダンの雨のなかの泥濘での在留邦人の記述がある。

ルソン戦記 ベンゲット道 高木俊朗氏より  
  
あのとき、あたしは父を背中に背負っていました。父は病気で歩けなかったので
す。教会にたどりついて休もうとしたら、日本の兵隊で床下までいっぱいです。

兵隊は「ここは、いっぱいだ。お前たちはあっちの山へゆけ」といって入れてくれ
ないのです。あたしは悲しかったけれど仕方ありません。教会を出て、この下の
あぜ道を歩いていきました。もう日が暮れかかって、ちょうど今時分でした。

雨の降った後だったから、もっと暗かったのです。雨のために、あぜ道がぬかる
んでいて、もう、あたしもフラフラでしたから、滑って田のなかに落ち込んだのです。
父は投げ出されて、田の泥の中に埋まって、動けなくなったのです。・・・

ヨシは夢中になって、林造を泥の中から引き出そうとしたが、力が及ばなかった。
田の土は粘土質で、林造の身体に粘りついていた。ヨシが田の中に足を入れると
その足をとられた。林造はあきらめた。

「わしはいいから、ここに置いていけ。お前たちだけで早く行け」ヨシは動く力もな
く、田のあぜ道に座り込んだ。
林造は声を荒くして叱った。「早く行け、わしにかまうな」ヨシは心を決めて立ち上
がった。・・・
幾たびも立ち止まっては振り返りながら、この橋の下の向こうへいった。

しかし、ヨシはそのとき、そのまま別れたのではなかった。次の朝、ヨシはパクダン
の教会の下まで、戻っていった。林造は横顔の半分を泥の中に埋めていた。

ヨシは父をそのままにしておいては、ならないと思った。しかし、素手では埋めるこ
とも、土をかけることもできなかった。ヨシは近くにあった稲のワラを集めてきて、
父の上にかぶせた。林造は明治15年生まれ、63歳であった。

  
     

アシン 回想の比島戦 一木千秋氏 早稲田速記より


アシン河谷へ在留邦人と部隊が逃げ込むまでラムット、
ファ―ムスクール、サントドミンゴ峠の線でバガバックから
進行してくる米軍を阻止するため防衛陣地を敷く。
昭和20年6月上旬。



勤師団の戦闘指揮所は、4号線をはさんで南側の広い谷地の森林内に展開して
いる。そして、上のサントドミンゴ峠の中腹に作った監視所に登る。

ラムット河北岸には早朝から敵観測機が数機旋回し、昨日に比べても猛烈な砲
撃で白煙が長時間続いている。

P38数機がファームスクール周辺の山裾や二宮大隊の三角山の陣地に爆撃を繰り
返し、監視所の台からは、パイロットの顔が見るくらいの超低空である。

志田大隊からの報告によれば、ラムット河北岸の第一線に配備していた川口大
隊は二日間の砲爆撃でパニック状態になり、敗走。

地上攻撃機で4号線一帯をドラムカン爆弾で焼き払い、銃撃、砲撃を交えその後
4号線を架橋し、戦車を先頭に進撃を開始してきた。

毎日火炎放射器の、攻撃の連続で、一帯は焦土と化している様相が、監視所か
も眺められた。敵は暫時レストハウス、ファームスクールと近づいて来る。

ラムット河南岸には重砲も進出したらしく、ファームスクール周辺には、長距離砲
の砲弾が落下、夜間に間隔的に三叉路の射撃を続けている。

若月大隊正面は、でに撃破されて山際に後退、四号線は火炎、三角山は砲煙と、包囲網がファーム
スクールの谷間を焦点に狭まりつつある状況である。

一週間ほど三角山の攻撃が続き、二宮大隊も被害増大、壊滅状態になり、ファ
−ムスクールの関所も、崩壊し師団もサントドミンゴ峠へ転用(退却)を命じたが、
届かず・・・

▲三角山陣地

高知県で編成された部隊が壊滅したファームスクールの三角山陣地。6月は雨季であり、毎日毎日雨が降り、雨のなかで壕を掘り雨と砲弾の陣地。4号線ファームスクールの山道中腹から見る。


6月16日〜23日の攻撃で高知県で編成された二宮部隊は壊滅状態となる。
昭和20年6月24日命令により、二宮大隊は三角山陣地を撤退、戦力は壊滅してバ
ラバラになった約200名がサントドミンゴ峠に、迂回してやっとのことで後退してきたの
は、6月28日であった。




アシン河谷への逃避行

         
アシン河谷への経路は
5号線で、サンホセ、アリタオ、バヨンボン、バガバック経由と、バギオから山の峰伝
いの国道11号線でボントックに至る、ボントック道がある。

この道を、バギオから21キロ地点で右折して、深い谷を下って、細い道が続いていく。
カガヤン河谷の米をバギオへ輸送するため、あらたに人工で作った、山下道と呼ば
れ、山奥の間道があり、5号線のアリタオに抜けている。




九十九折の山道を上りキアンガン、さらに細い山道を山奥へむけてパクダン、プロイ山、マゴック、アシン河谷へ続く。
行き着いたところは地獄となる。フンドアンからトッカンに抜ける道、390号線等は道端に行き倒れの死体が、
かたずけても、かたずけてもごろごろ転がっていた。北部ルソンでの戦死者は127,000名。

バギオからアシンへの逃避行は、この道と、11号線をボントックにむけて進み、ボン
トックを右折してアシン河谷へ入って行く道と、もう一つバギオからボントック道途中、 
90キロ地点を右折して、山の中へ入りアシンへ向う道がある。

第四航空軍始末記 村松喬氏 富士書苑より

キアンガンに軍司令部があつたのは約三週間であった。山下大将以下軍首脳部は
6月20日頃にはキアンガンを撤退して、さらに奥地のアシン河谷の上流に入った。

この地域は西のほうでバギオ〜ボントツク街道に接し、東はバガバック、キアンガン、ボント
ック道の山道に挟まれる、ごく小さな地域でキアンガンを中心とはしていないが、キアン
ガン複郭陣地と呼ばれた。

正確にはアシン河谷複郭陣地と呼ばれるべきであろう。
バガバックを陥とした米軍は息もつかず、ファームスクールを陥した。キアンガンは敵前
にさらされた。夜間、軍と邦人は続々とキアンガンを離れて、アシン河の渓谷に向かった
が、時はあいにくの雨季。

道は泥濘、行軍は難渋をきわめた。しかも雨のため月はなく
真の暗闇である。

一寸先もわからない、真っ暗闇の中を雨に、打たれながら逃げてゆく人々の心は苦しみ
を越えた絶望に閉ざされていた。キアンガンから6〜7キロはなれた、パクダンは山と山
の谷間であったが、水田で、あぜ道ほどの道しかなく、雑踏する敗走の人たちは、道の
上を満足に歩けなかった。

水田の中に落とされ、ただむやみに歩くのだったが、泥濘は腿までも没してしまう深さで
あった。その泥濘の中を一歩一歩、歩いた。

歩いては泥の中に身を投げ出して休息した。
パクダンをすぎると、急坂にかかる。一歩踏み出しては半歩滑るという山道である。
また、一歩踏み誤れば、谷底に消えてしまう細い道である。

山道のどこにも、山肌に背を押し付けるようにして邦人たちが休息している。
彼らは雨の中で火を燃やすすべを習得している。
北部ルソンの山岳地帯は夜、雨ともなれば、冷気が肌をふるわすほどであった。

峠を越して、下り坂になり坂の途中がマゴックの部落であった。マゴックを通りすぎて、
谷底に降りきったところに、アシン河が流れている。河の対岸はまた険しい山。アシン
河は、川幅100メートルあまりでキアンガン〜ボントック街道には、つり橋がかかっている。

鉄線を張り渡し、それに板を渡して歩道にしてあるのだが、人が渡るとユラユラゆれる。
二人同時に渡ることはできない。雨が降ると、河の水は見ているうちに水かさを増して
橋スレスレに激流が流れる。

この河の流れる山中は険しい山であると同時に、水のな
い不毛の地なのである。雨が降れば一度にどっと、こらえ性がなく水を流してしまう。

つり橋を渡り、再び急坂を上がると、フンドアンの部落である。教会があった。
フンドアンから右折すると、バナウエからボントックへ行く。

日本軍は、その地点から左に折れて西進し、バギオ〜ボントツク道上のトッカンまでの
道路上沿いに展開した。軍司令部はフンドアン〜トッカンの間の第三レストハウス付近
に位置した。キアンガンからの逃避行は、山下大将、武藤参謀長以下誰もが徒歩であっ
た。

この道は元来、土人道であって、人ひとりがやっと通れる道。しかも夜間、泥濘の中の
行軍では、車はもちろん、馬があっても使えない。キアンガン複郭陣地は結局フンドア
ン・トツカン道を軸として東西に長く、それに多少南北の厚みを加えた守備陣地であった。

そして東西南北の四方を、完全に米軍に包囲された、山の中の離れ小島であった。
昭和20年6月末の状況である。

アシン河谷への逃避行は、6月下旬から7月へかけて続けられた。
マゴックからつり橋、フンドアンから第四、第三レストハウスと続いて、トッカンに至る山
道を、毎日毎日、部隊を追及する兵隊や、あるいは部隊にはぐれた兵隊が歩いていた。

彼らは食料の持ち合わせはまるでなかった。破れて垢じみた服に、さびついた銃、役に
もたたぬ雑のう、飯ごうが彼らの持ち物のすべてであった。兵隊の大半はマラリヤ患者
だった。彼らはすでに半年に及ぶ敗走の連続で、なにもかも減らしてしまっていた。

空腹を満たすのは、イゴロット族が植えたサツマイモ畑を掘るのである。
栄養失調、マラリヤの発熱、脚気、それに引き続いて、ろくな食べ物をとらないので大腸
炎がおこる。それでも彼らは歩き続けた。冷たい雨が連日降った。雨に濡れて彼らは泥
んこの山道を歩く。

しかし、一歩も進むことが出来なくなる。道端に雨に打たれながら、ゴロリと横になる。
こうした行き倒れが、日本軍のアシン河谷への逃避行初期には、無数に続出した。

人ひとりがようやく通れるぐらいの細い山道に、死体が、ほとんど数珠繋ぎに倒れていた。
死臭が谷に満ちるようであった。

土色になって歯をむきだしたり、目をむき出したりした死体に、無常なハエが真っ黒にたか
って、死液をなめていた。

また行軍していく兵隊が、ところ選ばずにする糞が、道のいたるところにあって、これにハエ
がいっぱい、たかっていた。初めの間は、各部隊から兵隊を出して死体を道端に埋めたり、
土をかけたりしたが、その作業もいつの間にか中止されてしまった。

死体はいつまでも、ほったらかされて、誰も処置する者はなくなった。・・・

ルソンの失陥 設楽敏雄氏 富士書苑より

パクダン付近に敵弾が落下するようになったので、20年6月20日、山下将軍はアシン河谷
のフンドアン部落に司令部を移し、ついで、7月10日には、複郭陣地のほぼ中央にあたる、
第三レストハウスの対岸に移った。

そこは土民がすでに一部の収穫は終えていたが、棚田には熟した稲がなお、いくらか残っ
ており、また穀倉にも穂のついたままの、籾が発見された。この米と山腹に植えられた、サ
ツマイモが逃げ込んだ日本軍の命をささえた。

フンドアンからトッカンに抜ける山道には、無数の死体が腐臭をはなって、転がっていた。
しかも誰もその死体から、特別の刺激も受けなかった。死体は新たに編成された道路清
掃隊がかたずけても、かたずけても転がっていた。

アシン河谷は死の谷となり、いたるところに赤痢患者の糞が流れていた。・・・

回想の比島戦 一木千秋氏 早稲田速記より

昭和20年8月に入り、情勢は破局寸前の様相となり、兵は飢えと病におかされ、士気も衰
え、星占いが広がり、敵の宣伝ビラに惑わされ投降すら、おこなわれる状況となりつつあっ
た。米比軍の攻撃より複郭内の最大の問題は、食料の不足と、マラリヤ、アメーバー赤痢
の疾病であった。

2000名たらずのイゴロット族が住む棚田地帯に、そとから補給を絶たれた日本人の50,000
名が入り込めば、その欠乏は明らかである。

特に悲惨なのは邦人であつた。
バギオ付近で2500名と推定された邦人も、若い男は現地召集されて戦場にあり、老若男女
はバギオ、山下道、ソラノ、ラムットファームスクールと逐次脱落し、アシン河谷に達したのは
半数ぐらいか。

邦人は概ね二手に分かれ、一部はアシン河畔へ、一部はパクダンから西北に進んだアンチ
ボロの北のホヨ地区で自活を始めようとしていた。

キアンガンを6月17日の夜、動き始めた邦人は、膝まで没する泥沼の中をタイヤの炬火を手
に、列をなして悲惨な行進を始めていった。

キアンガンを四キロたらず進めば、アムドントック川に沿ってパクダンやホローガンの集落が
点在し、学校の分教場、教会も並んでいる。プロイ山の中腹の峠を越えねばアシン河谷へは
行けない。

ここで脱落し始めた数家族が、分教場や教会の床下に死期の近づくのを待っていた。
かつてバギオで日本人会や日本人学校の理事もしたイゴロット系日本人の父親。
六十歳を越え、男の子二人は現地招集で戦場にあり生死不明で、母親と娘二人を伴っている。

「母さん、プロイの山は越えられぬよ。ここで静かに死なしてくれ」
母親も精魂尽き果て、生きる望みもなくなっていた。

「父さん、そうしましょう。娘二人は道ずれにはできませんよ。父さんバギオはよかったわね。
もう家も何もなくなったし、死んでもいいですよ。一緒にバギオの日本人墓地の先祖の墓で
眠りましょう」

それから二、三日して父は床下で息を引き取った。母と娘で近くの岡に埋めた。一週間ぐらい
して、母も娘が一握りの米で作った粥を末期の水がわりにすすり、父の後を追った。娘二人は
両親を埋めた土にしがみつき、泣き続けていた。・・・・

プロイ山の中腹の土人道の峠を越え、斜面を下る途中にマゴックの集落がある眺めのよい高
台で、教会や分教場もある。教会のロザリオの額の前に、漆黒の長い髪を振り乱し、一人の女
性が死んでいる。

教会のキリスト像に祈り、娘の行く末を案じつつ死んでいったことであろう。
やせ細った三歳ぐらいの女の子が消え入るような声で、「お母さん、お母さん」と横になった母
を揺り動かしている。・・・・

マゴックの集落を土人道をつたって八キロぐらい下がるとキヤンキヤンのアシン河にワイヤで
吊るした簡単なつり橋がある。川幅50メートルぐらいか。身体の弱った老若男女では一苦労
する難所である。まして夜ともなればなおさらである。

しかし、ここを通らねばアシン河谷の北岸には行けない。ヨロヨロ、ワイヤを伝って歩いて多く
の人が河に落ちて溺れ、子供を助けようと気も狂わんばかりに母親が叫びつつアシンの流れ
に沈んでいったと言われている。

アシンのつり橋を渡ると道は上りとなり、ハバンガンを経て道はバナウエから来てトッカンに
向かう390号線とフンドアンの部落で合流する。

この三叉路を東にとれば4号線上の棚田で
有名なバナウエに達し、西に進めば390号線という車馬道4RH〜1RH〜トッカン〜ローを経て
11号線の90キロ地点のアバダンに至る。

アシン河は南へ、つり橋を走ってカラバンの部落に至り、さらに北西へ曲がってトッカン近くで
終わる。

この390号線が「白骨街道」、アシン河畔が「地獄谷」と称された地帯であり、3RHのアシン河
対岸が方面軍司令部の最終基地と定めた「大和基地」である。

キアンガン周辺より複郭地域に追い込まれた兵士や邦人の群れは、つり橋を渡り390号線
やアシン河谷に流れ、8月上旬にはフンドアンに敵砲弾が落下するや、同地北側にあった

野戦病院も解散し、数万の日本人があるいは集団を作り、あるいはバラバラに統制なきまま
に、いたるところ放浪し始めていた。・・・・

あちこちで銃声や手榴弾の爆発音が聞こえる。それが飢えや病に絶望した同胞の自決を
意味するものとわかっても、心を動かす者も少なくなっていた・・・・

地獄街道、地獄谷は各所に排斥物と死体があり、埋葬したあとがあり、腐敗したものあり、
疲れ果ててヨロヨロ歩く者あり、もはや歩けなくなって路傍に横たわる者あり。
「おいしっかりしろ」と呼びかけると、力なく返事をしたが、間もなく消えるように、息絶えて
いった。

兵士の目は悲しげに瞳の定まらぬ者、餓鬼の目の輝きをもって隙あらば飛び掛りそうな
殺気をはなっている者。日を追うにしたがって、地獄の様相を濃くし、あちこちに残る糞の
跡と、白骨に至るまでの、さまざまな過程をたどっていく死に様とが、次第に数を増してい
った。

埋めてもらうことさえ出来なくなっていた。土を掘り身分の分からない兵士を埋葬する体
力は生きている者にも、もう残っていなかった。

腐乱死体が強烈な臭気を放ち、生育したハエが雲霞のごとく精力的に乱舞し、また夜間
は身の危険を感じる飢餓街道と化していたのである。

複郭陣地内は米もイモの葉も蛙、蛇とか生き物も無く、わずかにイモのかけらと南方春
菊を煮て腹をみたすのみであった。・・・・


11号線バギオ〜ボントック道からアシン河谷へ 
              
バギオから16キロにヴィクウィッチ鉱山がある。ここに坑道を利用して74兵站病院が
バギオから移動していた。
この病院も、やがてアシン河谷へ逃げ込んでゆくことになる。

Gパン主計 ルソン戦記 金井英一郎氏 文芸春秋より

・・・トロッコに手術用材料を積み、一台ずつ彼女たちが押す。トロッコの前にカンテラ
を一個取り付けている。入り口付近に二段ベットが並んでいる。ここは特等室で下級
将校や下士官、兵には縁がない。

トロッコのレールは奥に向かって、どこまでも続いている。狭い坑道を300メートルほ
ど進むと三叉路になっていて、坑道は急に広くなる。一番右の坑道が最も広い。
ここを患者収容に使っている。

坑道内に幅2メートルもの川があり、湧出する水が、音をたてて流れている。
その急流に足場をかけて、ずらりと戸板のベットが並べられている。その夥しい数の
ベットに、あき間もなく負傷者が詰まり、押し殺したように唸っている。

その凄惨な光景は、闇の果てまで続き、進めど、進めど尽きることはない。
「看護婦さーん。いま朝ですか夕方ですか」
「看護婦さーん。痛いよう。足が痛いよう」

彼女はトロッコを止めて、患者に近寄り、毛布をめくる。患者のつめ先は白い骨が、
露出していて、骨と肉の間に一面にゴキブリがたかっている。

彼女はゴキブリを払い落として、洗いざらしの包帯をだして、ギッチリと巻きつけてや
る。その患者の藁ブトンは、天井からの雫で濡れ、三分の一ほどは腐っている。

おそらく毛布も衣服もシラミでいっぱいなのであろう。駆除する薬も方法も持たぬ。
患者たちは、一日中何も見えない漆黒の闇の中に寝かされている。湿気が多く
腐ったような坑内は、ゴキブリとシラミの天下。そこに患者たちも一緒に棲んでいる。

薬品が極度に底をついている。戦線復帰の見込みのない患者には、絶対に薬を
使うな、と命令されているという。500、600、700戸板ベットは延々と続く。
延長700メートルもの間に、幽鬼のような患者が呻吟している。


坑道はその先で二つに分かれ、一方は重症患者が収容され、もう一方は手術室
が設けられていると説明される。その手術室の方向から灯りが一つやってくる。トロ
ッコのゴロゴロという響きと共に、光が近づいてくる。・・・


トロッコの荷物を見て、アッと息を呑む。切断された人間の手や足なのだ。
毎日十人くらいの手や足が、麻酔なしで切断されていると言う。
生き地獄だ。  これが地獄でなくて、何だろう。・・・

・・・手術といっても、麻酔薬など、とっくに無い。

泣き泣き、念仏を唱える兵隊の手足を切断する。

毎日十人、二十人と死ぬ。負傷兵はここよりほかに、いくところがない。 

ひとたび坑内に運び込まれたら、二度と太陽を見ることは出来ない。
この真っ暗闇の生き地獄に、何日生きているか、だけのことだ。・・・

昼も夜もない漆黒の闇の坑道で、傷の苦痛に呻吟する負傷兵の、たった一つの
喜びは、目の前をカンテラの灯と、トロッコと、看護婦が通り過ぎる、そのときなのだ、
その光明の瞬間に、もう一度会いたいために、生きている。

負傷兵たちは、灯りがやってくると、ざわざわと、ざわめき、起き上がって、一斉に
灯りを見る。髭ぼうぼうの、痩せこけて幽鬼の姿の傷病兵たちは、この一瞬の光を
見落とすまいと、潤むように、食い入るようにカンテラを見る。

・・・「看護婦さーん、とまって下さい」「看護婦さーん、もっと居て下さい」

坑道の、あち、こちから、悲痛な声がかかる。この真っ暗闇の坑内には、ただ死を
待つだけの千人近い負傷者たちが居る。

               昭和20年2月末のこと・・・                                   

この74兵站病院の、最後はアシン河谷のトッカンに逃げ込むことになる。

                              
Gパン主計 ルソン戦記 金井英一郎氏 文芸春秋より

米軍のバギオへの進攻が始まり、この坑道病院は三月末アシン河谷へ逃避行す
る。このころの病院の勤務者は過労と食糧不足でフラフラで足が腫れ上がっていた。
それなのに、これから100キロも歩いて山の中に入るという。 

夜半午前一時、坑道口前広場集合。どこへ行くのかこれからどうなるのか、すべて
軍の機密。ただ100キロ北に歩いて山の中に入るということだけ。坑道内に残した数
百人の患者をどうするのか、いっさい話しがなかった。
          
衛生兵が昇汞を用意していた。バケツの水に溶いて、患者に静脈注射する。
患者が生きて捕虜になることを禁じた非常きわまる軍命令なのだ。

トリニダットの橋は砲撃で落とされていた。真っ暗な坂道を下って、河原におりると
トラックやたくさんの兵隊、在留邦人で、ごったがえしていた。照明弾が飛んできて、
昼間のように明るくなった。連続して砲弾が飛んできて、人間や板や、いろんなもの
が夜空に吹き飛んだ。

・・・それから国道11号線を夜どうし歩いた。小休止では道端に倒れるように寝た。
地面に倒れて寝ると、霜が降りてくるような寒さだった。この国道は(ボントック道)
海抜2000メートル以上の山の稜線に作られている。

十日間、こうして歩いた。そして90キロ地点まできた。ここから国道と分かれ、右側
の谷の細い道を降りた。急に道が悪くなったので、みんな何度もつまずいた。パクロ
ガンの部落についた。

それから行軍は更に続いた。
トッカンまで24キロの厳しい山道。

下を見れば千尋の谷、見上げると首が痛くなるような高い山。これからが本当の地
獄だった。食べ物が無い、助けてくれない。誰一人まともに動ける看護婦はいなかっ
た自分の一寸先がどうなるやら、どうして生きてこれたかわからない。
中条婦長殿もこの山の中で亡くなった。・・・

回想の比島戦 アシン 一木千秋氏早稲田速記より

・・・フンドアンの北側の四週、棚田に囲まれた小高い岡の、森林に幅300メートル
長さ2キロたらずの台地がある。北に500メートルいけば地獄街道、地獄谷と呼ば
れた390号線が通っている。(道端に行き倒れた死体がゴロゴロと転がっている状態)

ここに第12陸軍病院や各兵站病院が逃げ込んで、群集していた。
8月に近いころは、患者は治療手段もなく、次々と亡くなり、埋葬する場所もなく、
重ねて弔うほかなかった。                                             

そこも迫撃砲やナパーム弾の攻撃の目標となったので、390号線を3RH方面に移
動し、患者たちは行き倒れて死んでいった。

看護婦も同様であった。治療手段もなく元気を取り戻す食料もなく、負傷兵を助ける
手段を絶たれた看護婦は使命感も消え博愛心や母性愛を支える力は、もう誰にも残っ
ていなかった。

4RH方面から「看護婦さーん、看護婦さーん」と呼ぶ声を聞いても、答える力もなか
った。自らも死を待つのみであった。集まった十四、五人が各人、手に家族の写真を
持ったまま、腕に空気の注射をし合って、集団自決して旅立っていった。

               終戦 まじかの あまりにも悲惨なできごとでした・・・ 




戦争を始めた人はこのようなことを知っているのて゜しょうか

               引用した資料

フィリピン戦の回想  山本正道氏

回想の比島戦 アシン 一木千秋氏 早稲田速記

ルソン戦 死の谷   阿利莫二氏 岩波書店

戦跡を歩く      牧野弘道氏 ホーム社

フィピン戦逃避行証言昭和史の断面

       新美彰さん 吉見義明氏 岩波書店

Gパン主計 ルソン戦記 金井英一郎氏  文芸春秋

ルソン戦記 ベンゲット道 高木俊朗氏 文芸春秋

大東亜戦史 フィリピン戦 富士書苑

     ルソンの失陥   設楽敏雄

      第四航空軍始末記 村松喬

捷号陸軍作戦(2)ルソン決戦 防衛庁防衛研修所 戦史室


神様どうか、このホームページが遺族の方の目に、とまりますように心よりお願いいたします。

未帰還兵..........いまだに遺骨収容されていません。
 ファームスクールでの戦死者松井栄喜の息子です


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