「シベリアへの旅路 我が父への想い」

1984年10月21日、父が死んだ。
67歳だった。

結腸と肝臓に癌が発見されてから1年間の入院生活の末、集中治療室でチューブだらけになって苦しむ父の最期を見つめた。
息をひきとった後、看護婦さんたちは泣きながら父の体を清めてくれていた。

その涙は常にまわりの人のことを気使う力強い優しさを持っていた父の尊さに、ようやく気付かせてくれる想いがした。
末期癌の病状について父には告げないままだったにもかかわらず、几帳面だった父らしく折り目正しくたたまれた衣類等の身の回りの品がきれいに整理されていた。

そして、ていねいなペン書きの長文の手記と、それを自ら朗読して吹き込んだテープが見つかった。それは父の若い時の体験である旧・満州での軍隊生活と敗戦後のシベリア抑留を経て帰郷するまでをつづった手記だった。

「私は森沢五郎であります。五郎と言う名前をつけてくれましたのは、すぐ近所に住んでおられました北岡正吉と言う村長さんであります。五男に生まれましたので『五郎とつけたほうが良い』と言うので、命名してくれたそうであります。」
ー手記よりー

父の手記はこんな書き出しで始まる。

-写真集「シベリアへの旅路 我が父への想い」より-

父の手記を元に、その軌跡を撮影した写真集です。以下は写真集の一部より。

タンボフ州ラーダ収容所墓地
父が収容された時、ドイツ兵から聞いた話では、当時収容所のまわりには寒さと栄養失調で死んだ約5000名のドイツ人を埋めた跡があり、ドイツ人捕虜はその死体をかたづけるのに毎日暇がなかったようだ。

タタール自治共和国エラブカ(Yelabuga)
収容所があった町エラブカ。

ナホトカ(Nahodka)
ここから日本に向けて帰還した。

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