北川村・柏木での中岡慎太郎

慎太郎4歳の時から、ここで手習い読書を学んだ松林寺。明治以降から災難が続き、山門を残すだけとのこと。山門は室町時代以前の建築と見られているようで古い歴史を感じさせる門でした。上写真のお堂の横には慎太郎の遺髪墓地(上写真の右のお墓)、両親(左の丸いお墓)や妻(右から2番目)の墓が並んでいます。またすぐ傍に烏ケ城主の北川玄蕃頭一族のお墓もあります。上中写真はお寺の中の建物・古い公民館と左は公民館の中の様子です。

中岡慎太郎は、天保9年の4月に、ここで生まれました。明治13年売却された家を昭和42年に北川村が買収し、没後100年祭記念として生家復元しました。現在は道路の下に位置しています。
庄屋見習い時代
「民なくして君や国なし」
ある日藩の役人に言った慎太郎の言葉です。(省略)藩の役人が聞き入れてくれないので、村人をかばい「民なくして君や国はない。まして民の利益を無視した法であろう筈はない。法の運用は人にある。区々たる俗吏が法にとらわれて民を苦しめるとは何事ぞ。責任は拙者が引き受ける。速やかに去れ。用があるなら首を洗って出直して来い。」
「明日まで待て」
北川村に飢饉があったときのことです。
慎太郎は四方に奔放してさつま芋500貫を手に入れ人々を救済しましたが、それだけでは足りません。意を決して城下へ出て行きます。国老の役宅を訪ねましたが夕刻で取り次ぎ役は、「明日まで待て」と取り次ごうとしません、慎太郎は1日も争う村人の難儀だと主張し門前を去らずに一夜を明かしました。
国老は早起きの習慣があり早朝床を抜け邸内を一巡しますと門前に見知らぬ青年が姿勢を正して座っています。不審に思い声をかけますと、慎太郎でした。その必死の願いを聞いた国老は、その場で官蔵を開き村民を救済することを許可したそうです。
「無駄のない人」
慎太郎の家に奉公した祖母から話を聞いて育った古老は、「中岡先生はひとときも無駄という時間のない人じゃった。例えば秋の刈入れの時、烏ケ森を越え帰ってくる途中に百姓達が稲の取り入れに追われている。それをみながら家に帰り着くと、稲ざすを持って、すっと手伝いに行くというお人やった。」
田中光顕の話
「慎太郎の説得力」
「頭がきれ、弁舌爽やかであった。交渉時で障害になる人物があらわれると慎太郎が行けば、1時間以内に意のままに説き伏せて帰った。また剣を持てば龍馬よりはるかに上であったろう。この目で働き振りを見ての実感である。」
「寝食共に暮らしたが、中岡の性格は謹厳で西郷に似ており、坂本の性格は豪傑肌で高杉に似ている」 (資料 前田年雄著 「中岡慎太郎読本」より)

こんな中岡慎太郎が好きになりました。北川村の柏木を歩くことができ嬉しく思いました。

 

中岡慎太郎館(北川村立)
前田年雄氏の「中岡慎太郎読本」を読んで、慎太郎が好きになりました。
前田氏曰く「慎太郎は俊才であった。文武両道にすぐれていた。高邁な識見を持っていた。その主義は行動的であった。三条・岩倉・坂本・西郷・板垣をよく結び、協力体制に追い込んだ。私心の一片があるのでなく、公憤に燃え一路国事に捧げ尽くした。品行方正、酒を飲んでも女色はみぢんもなかった。土佐の高峰の如く仰ぎ見る大風格を備えていた。」
このページでは慎太郎研究された前田氏の本を引用し、慎太郎の北川村の柏木でのことを重点にして書いてみたいと思います。
慎太郎館の周辺には生家や松林寺、記念碑、磨崖仏などがあり、慎太郎を偲ぶことが出来ます。

幼少時代
中岡慎太郎は3歳で父・小伝次から読み書きを学び、7歳で漢方医・島村策吾に四書を14歳から島村塾で代講を勤め村人から神童といわれています。父・小伝次は家族を前にして庄屋として立派な人物に育てたいと、幼い慎太郎の世話を焼かないよう、自分が育てると家族に伝えたということです。庄屋は全ての村人を預かっている。身をもって村民を率いていかなければならないと。
17歳から藩校・田野学館で武市半平太から剣術を学び、高知城下の間崎滄浪塾で経史を学びます。
逸話の中に、慎太郎は幼い頃から無駄口を言わず、正しいと信じたことは、他人に譲らず実行した。また友達と泳ぎに行った巻き渕のこと。渕は渦がまき吸い込まれると出てこれないと、地元の人々が恐れる渕の横に立つ磨崖仏の上に、慎太郎は立ったのです。しばらく渕を見下ろしていましたが、「オーイ」と叫ぶと身を躍らせたのです。驚く人々はその剛胆さに舌をまきました。北川村の故人井津浄さんが、川北茂馬先生から聞いた話。「中岡先生は背筋をピンと伸ばし、はるか向こうに目をやり、両手を大きく振りながら、すっ、すっ、すっと歩く人でした。村の悪童達が縄に牛の糞を塗り付け道に張り隠れ、たぶん縄に引っかけ倒れると予想していましたが、慎太郎は縄の直前で立ち止まり、一喝した。偉ろうなる人は、子供の時からちごうちょったぞ」
この磨崖仏を見たくて訪ねました。画像の中に民家が入り民家を加工しました。

この上から慎太郎が飛び込んだ磨崖仏 (民家を消去しています。
右写真
道から見上げた記念碑周辺の様子
左写真は正門と庭。建物の広さは約65坪
玄関(左写真)
上写真は玄関横の和室。庭に面して玄関と3つの和室があります。
上写真は台所と囲炉裏
上写真は室内の壁面の様子。コピー写真が並んでいる。
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北川村 向学の道 
慎太郎が通った烏ケ森の向学の道もご覧下さい。